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摩訶般若波羅蜜経無生品第二十六

三、スブーティ、菩薩摩訶薩がどのように心を生ずるべきかを説く

爾時須菩提白佛言。
世尊。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜如是觀諸法。
是時見色無生畢竟淨故。見受想行識無生畢竟淨故。
その時須菩提が仏に申し上げた。
「世尊。もしも菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じてこのように諸々の事物を観るとします。
この時物質的存在を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
感覚・知覚・意志・意識を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
見我無生乃至知者見者無生畢竟淨故。
見檀那波羅蜜無生乃至般若波羅蜜無生畢竟淨故。
自我を生じたものではなく、また知というもの・見るということを生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
檀那波羅蜜を生じたものではなく、また般若波羅蜜を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
空無生乃至無法有法空無生畢竟淨故。
見四念處無生乃至十八不共法無生畢竟淨故。
内面の空を生じたものではなく、また存在せず存在する事物の空を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
四つの観行は生じたものではなく、また十八の〈仏以外には〉具わらない事物を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
見一切三昧一切陀羅尼無生畢竟淨故。
乃至見一切種智無生畢竟淨故。
見凡人凡人法無生畢竟淨故。
一切の三昧、一切の陀羅尼を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
また一切種智を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
凡人・凡人の理法を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです。
見須陀須陀法斯陀含斯陀含法阿那含阿那含法阿羅漢阿羅漢法辟支佛辟支佛法菩薩菩薩法佛佛法無生畢竟淨故。

須陀(スロータアーパンナ:小乗仏教修行の第一の階梯)・須陀の理法、斯陀含(サクリダーガーミー:第二の階梯)・斯陀含の理法、阿那含(アナーガーミー:第三の階梯)・阿那含の理法、阿羅漢(アナーガーミー:小乗仏教修行の第三の階梯)・阿羅漢の理法、辟支仏(プラティエーカ・ブッダ:独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者)・辟支仏の理法、菩薩・菩薩の理法、仏・仏の理法を生じたものではないと見ます、究極的に清浄だからです」

舍利弗語須菩提。
如我聞須菩提所
義。色是不生受想行識是不生。乃至佛佛法是不生。
舎利弗が須菩提に語った。
「わたしが聞いたところによると須菩提が説明した意義は、物質的存在は生じず、感覚・知覚・意志・意識も生じず、さらに仏の仏という事物も生じないとのことです。
若爾者今不應得須陀須陀果斯陀含斯陀含果阿那含阿那含果阿羅漢阿羅漢果辟支佛辟支佛道。
不應得菩薩摩訶薩一切種智。
もしそうであるならば今、須陀は須陀果を、斯陀含斯は陀含果を、阿那含は阿那含果を、阿羅漢は阿羅漢果を、辟支仏は辟支仏道をまさに得ることはありません、
菩薩摩訶薩は一切種智をまさに得ることはありません。
亦無六道別異。
亦不得菩薩摩訶薩五種菩提。
また六道に別異なく、
また菩薩摩訶薩は五種の菩提
(発心菩提、伏心菩提、明心菩提、出到菩提、無上菩提)をまさに得ることはありません。
須菩提。若一切法不生相。
何以故。
須陀
為斷三結故修道。
須菩提。あるいは一切の事物が生ずることのない姿かたちならば、
どういうわけで、
須陀
は三つの結〈びついた煩悩〉(悪見解への執着、誤った戒律の修行、真理への疑い)を断つための道を修行し、
斯陀含為薄婬恚癡故修道。
阿那含為斷五下分結故修道。

斯陀含は婬(淫欲)(いかり)・痴(おろかさ)を薄くするための道を修行し、
阿那含は下位世界に結びついた五種の煩悩
(悪見解への執着、誤った戒律の修行、真理への疑い、欲愛、激怒)を断つための道を修行し、

阿羅漢為斷五上分結故修道。
辟支佛為辟支佛法故修道。
阿羅漢は上位世界に結びついた五種の煩悩(物質的存在への欲望、精神的欲望、慢心、心の昂り、根本的無知)を断つための道を修行し、
辟支仏は辟支仏の理法のために道を修すのでしょうか。
何以故。菩薩摩訶薩作難行為生受種種苦。
何以故。佛得阿耨多羅三藐三菩提。
何以故。佛轉法輪。
須菩提語舍利弗。

どういうわけで、菩薩摩訶薩は難行を行い衆生のために種種の苦を受けるのでしょうか。
どういうわけで。仏は阿耨多羅三藐三菩提を得るのでしょうか。
どういうわけで。仏は法輪を転ずるのでしょうか」
須菩提が舎利弗に語った。

我不欲令無生法有所得。
我亦不欲令無生法中得須陀
須陀果。
「私は生じない事物によって何かを得るということをあらしめようとは欲しません。
私はまた生じない事物の中に須陀
・須陀果を得ようとは欲しません。
乃至不欲令無生法中得阿羅漢阿羅漢果辟支佛辟支佛道。
我亦不欲令菩薩作難行為
生受種種苦。
菩薩亦不以難行心行道。

さらに生じない事物の中に阿羅漢・阿羅漢果・辟支仏・辟支仏道を得ようとは欲しません。
私はまた菩薩に難行をさせて衆生のために種種の苦を受けさせようとは欲しません。
菩薩もまた難行の心をもって道を行ずるのではないのです。

何以故。
舍利弗。生難心苦心不能利益無量阿僧祇
生。
どういうわけでしょうか。
舎利弗。難しいと思う心、苦しいと思う心を生ずれば無量の阿僧祇
(アサンキャー:数えられないほどの大数)の衆生を利益することはできません。
舍利弗。今菩薩憐愍生。於生如父母兄弟想。
如兒子及己身想。
如是能利益無量阿僧祇
生。用無所得故。

舎利弗。今、菩薩は衆生を憐愍し、衆生に対し父母兄弟のように想います。
自分の児子のように想うのです。
このように無量の阿僧祇の衆生を利益することができるのです。得るということがないからです。
これはどういうことでしょうか。

所以者何。
菩薩摩訶薩應生如是心。
如我一切處一切種不可得。
外法亦如是。
菩薩摩訶薩はまさにこのように心を生ずべきです。
自我というものが一切の場所で、一切の事物の種類を認知することができないように、内外の事物もまた同様です。
若生如是想則無難心苦心。
何以故。
是菩薩於一切種一切處一切法不受故。

もしもこのように想いを生ずれば、すなわち難しいと思う心、苦しいと思う心はありません。
どうしてでしょうか。
この菩薩は一切の事物の種類、一切の場所、一切の事物を受けることがないからです。

舍利弗。我亦不欲令無生中佛得阿耨多羅三藐三菩提。
亦不欲令無生中轉法輪。
亦不欲令以無生法得道。

舎利弗。私はまた生じない事物の中で仏が阿耨多羅三藐三菩提を得ることを欲しません。
また生じない事物の中で法輪を転ずることを欲しません。
また生じない事物によって道を得ることを欲しません」

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著作 アルキメデスの館