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摩訶般若波羅蜜経等空品第二十三(丹本作含受品)

二、ブッダ、大乗は虚空のように数え切れない衆生を受け入れることを説く(一)

須菩提。如汝所言。如空受無量無邊阿僧祇生。
摩訶衍亦受無量無邊阿僧祇
生。
須菩提、汝の言うとおりである。虚空が無量・無辺・阿僧祇(アサンキャー、数えられないほどの大数)の衆生を受け入れるように、摩訶衍もまた無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるとのこと。
如是如是。須菩提。生無有故。當知空無有。
空無有故。當知摩訶衍亦無有。
以是因
故。摩訶衍受無量無邊阿僧祇生。
そのとおりそのとおり、須菩提、衆生は有るということがないから、まさに虚空は有るということがないと知るべきである。
虚空は有るということがないから、まさに摩訶衍も有るということがないのである。
この因縁によって、摩訶衍は無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるのである。
何以故。
空摩訶衍。是法皆不可得故。
復次須菩提。摩訶衍無所有故。當知阿僧祇無所有。
阿僧祇無所有故。當知無量無所有。
どうしてであろうか。
この衆生・虚空・摩訶衍、この事物はみな認知できないからである。
また次に須菩提、摩訶衍は有るということがないから、まさに阿僧祇は有るということがないと知るべきである。
阿僧祇は有るということがないから、まさに無量は有るということがないと知るべきである。
無量無所有故。當知無邊無所有。
無邊無所有故。當知一切諸法無所有。
以是因
故。須菩提。是摩訶衍受無量無邊阿僧祇生。
無量は有るということがないから、まさに無辺は有るということがないと知るべきである。
無辺は有るということがないから、まさに一切の諸々の事物は有るということがないと知るべきである。
この因縁によって、須菩提、この摩訶衍は無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるのである。
何以故。
空摩訶衍阿僧祇無量無邊。是一切法不可得故。
どうしてであろうか
この衆生、虚空・摩訶衍・阿僧祇・無量・無辺、この一切の事物は認知できないからである。
復次須菩提。我無所有乃至知者見者無所有故。當知如法性實際無所有。 また次に須菩提、我は有るということがなく、さらに知るということ・見るということは有るということがないから、まさにあるがままの実体・〈固有の〉本性・究極的な真実は有るということがないと知るべきである。
如法性實際無所有故。當知乃至無量無邊阿僧祇無所有。
無量無邊阿僧祇無所有故。當知一切法無所有。
以是因
故。須菩提。是摩訶衍受無量無邊阿僧祇生。
あるがままの実体・〈固有の〉本性・究極的な真実は有るということがないから、まさにさらに無量・無辺・阿僧祇は有るということがないと知るべきである。
無量・無辺・阿僧祇は有るということがないから、まさに一切の事物は有るということがないと知るべきである。
この因縁によって、須菩提、この摩訶衍は無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるのである。
何以故。
生乃至知者見者實際乃至無量無邊阿僧祇。是一切法不可得故。
どうしてであろうか。
この衆生乃至知るということ・見るということ、〈諸々の事物の〉究極的な真実乃至無量・無辺・阿僧祇、この一切の事物は認知できないからである。
復次須菩提。我無所有乃至知者見者無所有故。當知不可思議性無所有。 また次に須菩提、我は有るということがなく、乃至知るということ・見るということは有るということがないから、まさに思議することができないことの本性は有るということがないと知るべきである。
不可思議性無所有故。當知色受想行識無所有。
色受想行識無所有故。當知
空無所有。
思議することができないことの本性は有るということがないから、まさに物質的存在・感覚・知覚・意志・意識は有るということがないと知るべきである。
物質的存在・感覚・知覚・意志・意識は有るということがないから、まさに虚空は有るということがないと知るべきである。
空無所有故。當知摩訶衍無所有。
摩訶衍無所有故。當知阿僧祇無所有。
虚空は有るということがないから、まさに摩訶衍は有るということがない知るべきである。
摩訶衍は有るということがないから、まさに阿僧祇は有るということがないと知るべきである。
阿僧祇無所有故。當知無量無所有。
無量無所有故。當知無邊無所有。
阿僧祇は有るということがないから、まさに無量は有るということがないと知るべきである。
無量は有るということがないから、まさに無辺は有るということがないと知るべきである。
無邊無所有故。當知一切諸法無所有。
以是因
故。須菩提。當知摩訶衍受無量無邊阿僧祇生。
無辺は有るということがないから、まさに一切の諸々の事物は有るということがないと知るべきである。
この因縁によって、須菩提、まさに摩訶衍は無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるのであると知るべきである。
何以故。
須菩提。我乃至知者見者等一切法皆不可得故。
どうしてであろうか。
須菩提、我乃至知るということ・見るということ等の一切の事物は皆な認知できないからである。
復次須菩提。我無所有乃至知者見者無所有故。當知眼無所有。耳鼻舌身意無所有。 また次に須菩提、我は有るということがなく、乃至知るということ・見るということは有るということがないから、まさに眼は有るということがなく、耳・鼻・舌・身体・心も有るということがないと知るべきである。
眼乃至意無所有故。當知空無所有。
空無所有故。當知摩訶衍無所有。
眼乃至心は有るということがないから、まさに虚空は有るということがないと知るべきである。
虚空は有るということがないから、まさに摩訶衍は有るということがないと知るべきである。
摩訶衍無所有故。當知阿僧祇無所有。
阿僧祇無所有故。當知無量無所有。
摩訶衍は有るということがないから、まさに阿僧祇は有るということがないと知るべきである。
阿僧祇は有るということがないから、まさに無量は有るということがないと知るべきである。
無量無所有故。當知無邊無所有。
無邊無所有故。當知一切諸法無所有。
無量は有るということがないから、まさに無辺は有るということがないと知るべきである。
無辺は有るということがないから、まさに一切の諸々の事物は有るということがないと知るべきである。
以是因故。須菩提。摩訶衍受無量無邊阿僧祇生。 この因縁によって、須菩提、摩訶衍は無量・無辺・阿僧祇の衆生を受け入れるのである。

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著作 アルキメデスの館