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摩訶般若波羅蜜経集散品第九

五、スブーティ、方便なくば般若波羅蜜行なしと説く

世尊。如菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜SAT版「。」有)無方便故。 世尊。菩薩摩訶薩で般若波羅蜜を行じようと思っても、方便(衆生引導の仮の手段)をもたないがために、
以吾我心於色中住。是菩薩作色行。
以吾我心於受想行識中住。是菩薩作識行。
吾我の心で事物の中に留まっているようならば、この菩薩は事物の行をしているというのです。
吾我の心で感覚・知覚・意志・認知機能の中に留まっているようならば、この菩薩は〈感覚・知覚・意志・〉認知機能の行をしているというのです。
若菩薩作行者。不受般若波羅蜜。
亦不具足般若波羅蜜。
不具足般若波羅蜜故。
不能得成就薩婆若。
もしこういう菩薩の行をなす者は、般若波羅蜜を受けることなく、
また般若波羅蜜を具足せず、
般若波羅蜜を具足しないために、
薩婆若
(サルヴァジュニャーナ、一切智)の成就を得たことを〈実体として〉認知できないのです。
世尊。如菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜無方便故。以吾我心於十二入乃至陀羅尼三昧門中住。
是菩薩作十二入乃至作陀羅尼三昧門行。
世尊。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じようと思っても、方便をもたないがために、吾我の心で十二入から陀羅尼・三昧門までの中に留まっているようなら、
この菩薩は十二入の行をし、さらには陀羅尼・三昧門までを行じているというのです。
若菩薩作行者。不受般若波羅蜜。
亦不具足般若波羅蜜。
不具足般若波羅蜜。
誤植ならん故。
不能得成就薩婆若。
もしこういう菩薩の行をなす者は、般若波羅蜜を受けることなく、
また般若波羅蜜を具足せず、
般若波羅蜜を具足しないために、
薩婆若の成就を得たことを〈実体として〉認知できないのです。
何以故。
色是不受。
受想行識是不受。
何故でしょうか。
事物は受けることなく、
感覚・知覚・意志・認知機能も受けることがありません。
色不受則非色。
性空故。
事物は受けることがなければ、それは事物ではありません。
本性は空だからです。
受想行識不受則非識。
性空故。
感覚・知覚・意志・認知機能は受けることがなければ、それは〈感覚・知覚・意志・〉認知機能ではありません。
本性は空だからです。
十二入是不受。乃至陀羅尼三昧門是不受。
十二入不受則非十二入。
乃至陀羅尼三昧門不受則非陀羅尼三昧門。
性空故。
十二入は受けることなく、さらには陀羅尼・三昧門までも受けることがありません。
十二入は受けることがなければ、それは十二入ではなく、
さらには陀羅尼・三昧門は受けることがなければ、それは陀羅尼・三昧門ではありません。
本性は空だからです。
般若波羅蜜亦不受。
般若波羅蜜不受則非般若波羅蜜。
性空故。
般若波羅蜜もまた受けることがありません。
般若波羅蜜は受けることがなければ、それは般若波羅蜜ではありません。
本性は空だからです。
如是菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。
應觀諸法性空。
このように菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じようと思うならば、
まさに諸々の固有の本性は空を観ずるべきです。
如是觀心無行處。
是名菩薩摩訶薩不受三昧廣大之用。
不與聲聞辟支佛共。
このように観ずれば心は行じることがありません、
これを菩薩摩訶薩の不受三昧と名づけるのです。
広大な働きは声聞・辟支仏とは同じではありません。
是薩婆若慧。
亦不受
空故。
薩婆若の智慧というものもまた受けることがありません。
内面は空だからです。
外空外空空空大空第一義空有爲空無爲空畢竟空無始空散空性空自相空諸法空不可得空無法空有法空無法有法空故。 外面は空、内面および外面は空、空は空、大きな空、最重要意義は空、因縁によって生滅変化するものは空、恒常的なものは空、究極は空、始めがない空、分散した空、性質は空、〈自らの〉姿かたちは空、諸々の事物は空、〈実体として〉認知することのできないものは空、存在しないものは空、存在するものは空、存在せず存在するものは空だからです。
何以故。
是薩婆若不可以相行得相行有垢故。
何故でしょうか。
この薩婆若は姿かたちのある修行では〈実体として〉認知することができません、姿かたちのある修行は垢付いているからです。
何等是垢相。
色相乃至陀羅尼三昧門相。
是名垢相。
どのようなものを垢の姿かたちというのでしょうか。
理法の姿かたち、あるいは陀羅尼・三昧門の姿かたち、
これを垢の姿かたちと名づけるのです。
是相若受若修。可得薩婆若者。 この姿かたちをあるいは受けること、あるいは修することによって薩婆若を得られるものでしょうか。

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著作 アルキメデスの館