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摩訶般若波羅蜜経集散品第九

一、スブーティ、諸々の事物の因縁が和合して生起するのは認知できないことを説く

爾時慧命須菩提白佛言。
世尊。我不覺不得是菩薩行般若波羅蜜。當爲誰
般若波羅蜜。
すると須菩提(スブーティ)長老は仏に言葉を申し上げた。
「世尊。私は覚りませんし、菩薩の般若波羅蜜行というものを〈実体として〉認知しません。まさに誰のために
般若波羅蜜(プラジニャー:智慧+パーラミター:到彼岸、智慧の超越)を説くべきなのでしょうか。
世尊。我不得一切諸法集散。
若我爲菩薩作字言菩薩或當有悔。
世尊。私は一切の諸々の事物が〈縁により〉集まり〈和合し、縁からはなれて〉散っていくのを〈実体として〉認知しません。
もし私が菩薩のために文字を作り菩薩と言うとすれば、あるいはまさに後悔すべきでしょう。
世尊。是字不住亦不不住。 世尊。この〈菩薩という〉文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是字無所有故。
SAT版「。」無)以是故。是字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この文字はあるということがないからです、
ですから、この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
世尊。我不得色集散乃至識集散。
若不可得云何當作名字。
世尊。私は物質的存在が集まり散る、さらには意識までが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
もし〈実体として〉認知できないのであれば、一体どうやって名称を作るというのでしょうか。
世尊。以是因故。是字不住亦不不住。
何以故。
是字無所有故。
世尊。ですから、この〈物質的存在から意識までという〉文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何故でしょうか。
この文字はあるということがないからです。
世尊。我亦不得眼集散乃至意集散。
若不可得云何當作名字言是菩薩。
世尊。私はまた眼が集まり散る、あるいは心が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
もし〈実体として〉認知できないのであれば、一体どうやって名称を作りこれを菩薩と言うというのでしょうか。
世尊。是眼名字乃至意名字。不住亦不不住。 世尊。この眼という名称は、さらには心という名称までは留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是名字無所有故。
以是故。是字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この〈眼から心までという〉名称にはあるということがないからです。
ですから、この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
世尊。我不得色集散乃至法集散。
若不可得云何當作名字言是菩薩。
世尊。私は物質的存在が集まり散る、さらには事物までが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
もし〈実体として〉認知しないのであれば、一体どうやって名称を作り、これは菩薩だと言うというのでしょうか。
世尊。是色字乃至法字不住亦不不住。 世尊。この物質的存在という文字から事物という文字までは留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是字無所有故。
以是故。是字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この〈物質的存在から事物までという〉文字にはあるということがないからです。
ですから、この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
眼識乃至意識。
眼觸乃至意觸。
眼觸因
生受。乃至意觸因生受亦如是。
視覚から認知機能まで、
外界の認知から心による認知まで、
外界の認知から生じる感覚、さらには心による認知から生じる感覚までもまた同じようです。
世尊。我不得無明集散。乃至不得老死集散。 世尊。私は無明が集まり散るのを〈実体として〉認知せず、さらには老死までが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。我不得無明盡集散。乃至不得老死盡集散。 世尊。私は無明の尽きることが集まり散るのを〈実体として〉認知しませんし、さらには老死の尽きることまでが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。(十二因縁)
世尊。我不得婬怒癡集散
諸邪見集散。
皆亦如是。
世尊。私は淫らさ・怒り・おろかさが集まり散るのを、(三毒煩悩)
諸々の邪見が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
皆また同じようです。
世尊。我不得六波羅蜜集散
四念處集散乃至八聖道分集散。
空無相無作集散。
四禪四無量心四無色定集散。
世尊。私は六つの波羅蜜が集まり散るのを、
四つの観行が集まり散るのを、さらには八つの正しい道までが集まり散るのを、(三十七道品)
空・無相・無作が集まり散るのを、(三解脱門)
四つの禅・四つの限りのない心・四つの姿かたちのない瞑想が集まり散るのを、
念佛念法念僧念戒念捨念天。念善念入出息念身念死集散。 仏を念ずる・仏の教えを念ずる・教団を念ずる・戒めを念ずる・捨を念ずる・天を念ずる・善を念ずる・入出する息を念ずる・身体を念ずる・死を念ずることが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。(十念=八念+念善+念身)
我亦不得佛十力。乃至十八不共法集散。 私はまた仏の十力、さらには十八の〈仏以外には〉具わらない事物までが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。我若不得六波羅蜜。乃至十八不共法集散。
云何當作字言是菩薩。
世尊。私がもし六つの波羅蜜、さらには十八の〈仏以外には〉具わらない事物までが集まり散るのを〈実体として〉認知しないのであれば、
まさにどうやって文字を作り、これを菩薩だと言うべきなのでしょうか。
世尊。是字不住亦不不住。 世尊。この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是字無所有故。
以是故。是字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この文字はあるということがないからです。
ですから、この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
世尊。我不得如夢五陰集散。
我亦不得如ならん)如影如
如化五受陰集散。
亦如上
世尊。私は夢のように人間を形成する五要素が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
私はまた響きのように、影のように、陽炎のように、変化のように人間を形成する五要素が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
これも先の説明のとおりです。
世尊。我不得離集散。 世尊。私は〈自己の姿かたちと名字からの〉離脱が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
我不得寂滅不生不滅。不示不垢不淨集散。 私は寂滅、生ぜず・滅せず・示さず・垢付かず・浄まらないものが集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。我不得如法性實際法相法位集散。亦如上 世尊。私は〈諸々の事物の〉あるがままの実体・〈諸々の事物の〉固有の本性・〈諸々の事物の〉究極的な真実・存在の姿かたち・存在のあるべき位置が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
また上の説明と同じです。
我不得諸善不善法集散。
我不得有爲無爲法有漏無漏法集散。
過去未來現在法集散。
不過去不未來不現在法集散。
私は諸々の善・不善の存在が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
私は因縁によって生滅変化する・恒常的な存在、煩悩のある・煩悩のない存在が集まり散るのを、
過去・未来・現在の存在が集まり散るのを、
過去でなく・未来でなく・現在でない存在が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
何等是不過去不未來不現在。所謂無爲法。 この過去でなく・未来でなく・現在でないものを、何ものかが〈実体として〉認知できるということがあるのでしょうか、いわゆる恒常的な存在を。
世尊。我亦不得無爲法集散。 世尊。私はまた恒常的な存在が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。我亦不得佛集散。 世尊。私はまた仏が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。我亦不得十方如恒河沙等世界諸佛。及菩薩聲聞集散。 世尊。私はまた十方のガンジス川の沙ほどもある世界の諸々の仏及び菩薩・声聞が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
世尊。若我不得諸佛集散。云何當教菩薩摩訶薩般若波羅蜜。
世尊。もし私が諸々の仏が集まり散るのを〈実体として〉認知しないなら、一体どうやって菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を教えるのというのでしょうか。
世尊。是菩薩字不住亦不不住。 世尊。この菩薩という文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是字無所有故。
以是故。是字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この文字はあるということがないからです。
ですから、この文字は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
世尊。我不得是諸法實相集散。
云何當與菩薩作字言是菩薩
世尊。私はこの諸々の事物のありのままの姿が集まり散るのを〈実体として〉認知しません。
一体どうやって菩薩と文字を作りこれを菩薩と言うというのでしょうか。
世尊。是諸法實相。名字不住亦不不住。 世尊。この諸々の事物の真実のあり方という名称は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。
何以故。
是名字無所有故。
以是故。是名字不住亦不不住。
何故でしょうか。
この名称にはあるということがないからです。
ですから、この名称は留まることもこともなく、また留まらないのでもないのです。

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著作 アルキメデスの館