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摩訶般若波羅蜜経三仮品第七

二、菩薩摩訶薩は言葉を見ず、言葉に執著しないことを説く

復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。
復た次に須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、
不見色名字是常。
不見受想行識名字是常。
不見色名字無常。
不見受想行識名字無常。
物質的存在の名称が恒常であると見ず、
感覚・知覚・意志・意識の名称が恒常であると見ず、
物質的存在の名称が無常であると見ず、
感覚・知覚・意志・意識の名称が無常であるとも見ない。
不見色名字樂。
不見色名字苦。
物質的存在の名称が楽であると見ず、
物質的存在の名称が苦であるとも見ない。
不見色名字我。
不見色名字無我。
物質的存在の名称が自我であると見ず、
物質的存在の名称が無自我であるとも見ない。
不見色名字空。
不見色名字無相。
不見色名字無作。
物質的存在の名称が空であると見ず、
物質的存在の名称が姿かたちがないと見ず、
物質的存在の名称が作為がないとも見ない。
不見色名字寂滅。 物質的存在の名称が寂滅であると見ない。
不見色名字垢。
不見色名字淨。
物質的存在の名称が垢つくものと見ず、
物質的存在の名称が浄められるものとも見ない。
不見色名字生。
不見色名字滅。
物質的存在の名称が生ずるものと見ず、
物質的存在の名称が滅するものとも見ない。
不見色名字
不見色名字外。
不見色名字中間住。
受想行識亦如是。
物質的存在の名称が内にあると見ず、
物質的存在の名称が外にあるとも見ず、
物質的存在の名称が中間にあるとも見ない。
感覚・知覚・意志・意識もまた、同じようなものである。
眼色眼識眼觸。
眼觸因
生諸受。
乃至意法意識意觸。
意觸因
生諸受亦如是。
眼色・眼識・眼による認知、
眼による認知の因縁
(内因と外縁)で生ずるものの諸々の感覚から、
意法・意識・心による認知、
心による認知の因縁で生ずるものの諸々の感覚までもまた、同じようなものである。
何以故。
菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。
般若波羅蜜字。菩薩菩薩字。
有爲性中亦不見。
無爲性中亦不見。
菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。
是法皆不作分別。
なぜであろうか。
菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるとき、
般若波羅蜜という文字、菩薩や菩薩という文字を
因縁によって生滅変化する事物の本性中に見ることはなく、
生滅変化しない事物の本性中に見ることもない。
菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるとき、
これらの存在すべてを分別しない。
是菩薩行般若波羅蜜。
住不壞法中。
修四念處時。
不見般若波羅蜜。
不見般若波羅蜜字。
不見菩薩。
不見菩薩字。
乃至修十八不共法時。
不見般若波羅蜜。
不見般若波羅蜜字。
不見菩薩。
不見菩薩字。
この菩薩は般若波羅蜜を行ずるとき、
壊れることのない在り方にとどまり、
四つの観行を修するとき、
般若波羅蜜を見ず、
般若波羅蜜という文字を見ず、
菩薩を見ず、
菩薩という文字を見ない、
あるいは十八の〈仏以外には〉具わらない事物を修するとき、
般若波羅蜜を見ず、
般若波羅蜜という文字を見ず、
菩薩を見ず、
菩薩という文字を見ない。
菩薩摩訶薩如是行般若波羅蜜時。
但知諸法實相。
諸法實相者。無垢無淨。
菩薩摩訶薩はこのように、般若波羅蜜を行ずる時、
ただ諸々の事物の真実の在り方を知る。
諸々の事物の真実の在り方には、垢ついていることもなく浄いこともないのである。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。
當作是知名字假施設。
このように、須菩提、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行ずるとき、
まさに名称は仮に設け施したものであると知るようにすべきである。
知假名字已。
不著色
不著受想行識。
仮の名称であると知ってしまえば、
物質的存在に執著せず、
感覚・知覚・意志・意識にも執著せず、
不著眼乃至意。
不著色乃至法。
眼から心までにも執著せず、
物質的存在から心までにも執著せず、
不著眼識。
乃至不著意識。
眼による記憶に執著せず、
さらに心による記憶にまでも執著せず、
不著眼觸。
乃至不著意觸。
眼による認知に執著せず、
さらに心による認知にまでも執著せず、
不著眼觸因生受。
若苦若樂若不苦不樂。
乃至不著意觸因
生受。
若苦若樂若不苦不樂。
眼による認知の因縁で生ずるものの受、
もしは苦、もしくは楽、もしくは不苦・不楽に執著せず、
さらに心による認知の因縁で生ずるものの受、
もしは苦、もしくは楽、もしくは不苦・不楽にも執著せず、
不著有爲性。
不著無爲性。
因縁によって生滅変化する性質に執著せず、
恒常的な性質にも執著せず、
不著檀那波羅蜜。尸羅波羅蜜。提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禪那波羅蜜。般若波羅蜜。 檀那(ダーナ:布施)波羅蜜・尸羅(シーラ:持戒)波羅蜜・(クシャーンティ:忍辱)波羅蜜・毘梨耶(ヴィーリャ:精進)波羅蜜・禅那(ディヤーナ:三昧)羅蜜、般若波羅蜜に執著せず、
不著三十二相。
不著菩薩身。
〈仏身の〉三十二の相好に執著せず、
菩薩の身体にも執著せず、
不著菩薩肉眼。
乃至不著佛眼。
菩薩の肉眼に執著せず、
さらに〈菩薩の〉仏眼にまでも執著せず、
不著智波羅蜜。
不著神通波羅蜜。
智波羅蜜に執著せず、
神通波羅蜜にも執著せず、
不著空。
乃至不著無法有法空。
内面の空に執著せず、
さらに存在せず存在する事物の空にまでも執著せず、
不著成就生。
不著淨佛國土。
不著方便法。
衆生を救い上げることに執著せず、
仏の国土を浄めることに執著せず、
方便(衆生引導の仮の手段)の理法にも執著しない。
何以故。
是諸法無著者。
無著法。
無著處。皆無故。
なぜであろうか。
この諸々の事物に執著せず、
執著する事物はなく、
執著するところもなく、 すべてないからである。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。
不著一切法。
便揄v檀那波羅蜜尸羅波羅蜜
提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。
入菩薩位得阿惟越致地。
このように、須菩提、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行ずるとき、
一切の事物に執著しないから、
それによって檀那波羅蜜・尸羅波羅蜜・
提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禅那波羅蜜・般若波羅蜜を増益し、
菩薩の位に入り、阿惟越致の境地を得るのである。
具足菩薩神通。
遊一佛國至一佛國成就
生。
恭敬尊重
SAT版無重字)讚歎諸佛。爲淨佛國土。爲見諸佛供養。
菩薩の神通を具足し、
一仏国に遊び、一仏国に至り、衆生を救い上げ、
諸々の仏を恭敬・尊重・讚歎し、仏の国土を浄め、諸々の仏を見て供養する。
供養之具。善根成就故隨意悉得。
亦聞諸佛所
法。
聞已乃至阿耨多羅三藐三菩提終不忘失得諸陀羅尼門諸三昧門。
供養するためのものは、善根を成就するから思いどおりにことごとく得て、
また諸々の仏の説く理法を聞き、
聞いたことによって阿耨多羅三藐三菩提に至り、最後まで忘失せず、諸々の陀羅尼門、諸々の三昧門を得るのである。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。
當知諸法名假施設。

このように、須菩提、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行ずるとき、
まさに知るべきである、 諸々の事物の名称は仮に設け施したものであると。

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