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摩訶般若波羅蜜経三仮品第七

一、ブッダ一切の事物はただ名称のみであることを再び説く

爾時佛告慧命須菩提。
汝當教諸菩薩摩訶薩般若波羅蜜。如諸菩薩摩訶薩所應成就般若波羅蜜。
続いて仏は、長老の須菩提(スブーティ)に次のように説いた。
「汝、まさに諸々の菩薩摩訶薩
(ボーディサットヴァ:覚りを求める衆生+マハーサットヴァ:偉大な衆生般若波羅蜜(プラジニャー:智慧+パーラミター:到彼岸、智慧の超越)を教えるのは、諸々の菩薩摩訶薩がまさに成就するべき般若波羅蜜のようにすべきである」
即時諸菩薩摩訶薩及聲聞大弟子諸天等作是念。
慧命須菩提。自以智慧力。當爲諸菩薩摩訶薩
般若波羅蜜耶。
ただちに、諸々の菩薩摩訶薩及び声聞・大弟子・諸々の天〈王〉たちは、次のように思った。
「須菩提長老は自らの智慧の力によって、まさに諸々の菩薩摩訶薩のために般若波羅蜜を説くべきなのだろうか」
爲是佛力。慧命須菩提。知諸菩薩摩訶薩大弟子諸天心所念。語慧命舍利弗。 仏の力によって長老の須菩提は、諸々の菩薩摩訶薩・大弟子・諸々の天が思っていることを知り、長老の舎利弗(シャーリプトラ)に語った。

諸佛弟子所法。所教授皆是佛力。
佛所
法。法相不相違背。
是善男子。學是法得證此法。
如燈。

「諸々の仏弟子が説く理法、教授する〈理法〉はすべて仏の力によるのです。
仏の説く理法と事物のあるがままの姿は互いに反しません。
善男子には、この理法を学び、この理法をさとることができるのです。
仏の説は灯のようなものです。
舍利弗。一切聲聞辟支佛。實無是力。能爲菩薩摩訶薩般若波羅蜜。 舎利弗、一切の声聞・辟支仏は、実にこの力無くして菩薩摩訶薩のために般若波羅蜜を説くことができるでしょうか」
爾時慧命須菩提白佛言。
世尊。所
菩薩菩薩字何等法名菩薩。
世尊。我等不見是法名菩薩。云何教菩薩般若波羅蜜。
そのとき須菩提長老は、仏に申し上げた。
「世尊の説かれる菩薩と菩薩という文字と、いずれの事物を菩薩と名づけるのでしょうか。
世尊、我々は、この菩薩と名づけられた事物を見たことがありません。どうやって菩薩に般若波羅蜜を教えるのでしょうか」
佛告須菩提。
般若波羅蜜亦但有名字。名爲般若波羅蜜。
菩薩菩薩字亦但有名字。
是名字不在
不在外不在中間。
仏は、須菩提に次のように説いた。
「般若波羅蜜もまた、ただ名称
(即ち言葉)で般若波羅蜜と名づけられているのである。
菩薩と菩薩という文字もまた、ただ名称で、
この名称は〈菩薩の〉内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもない。
須菩提。譬如我名。和合故有。
是我名不生不滅。
但以世間名字故

生壽者命者生者養育者。
數人作者使作者。
起者使起者。
受者使受者。
知者見者等。和合法故有。
是諸名不生不滅。
但以世間名字故
般若波羅蜜。

須菩提、たとえば自我という名称は和合により存在する、と説くようなものである。
この自我という名称は生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
衆生・年・天命、生、養育、
数、人、作為、なさしめること、
起きること、起こさこと、
受けること、受けさせること、
知ること、見ること
なども、和合により存在しているのである。
この諸々の名称も生ぜず、滅さない。
ただ世間の名称によって般若波羅蜜を説くのである。

菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故

須菩提。譬如身和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故
菩薩・菩薩という文字もまたこのように、みな和合により存在している。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
須菩提、たとえば身体なども、和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
須菩提。譬如色受想行識。亦和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故
須菩提、たとえば物質的存在・感覚・知覚・意志・意識なども、和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
須菩提。般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆是和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故
須菩提、般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまた、このように和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
須菩提。譬如眼和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故

是眼不在
不在外不在中間。
耳鼻舌身意和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故
須菩提、たとえば眼なども和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
この眼は内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもない。
耳・鼻・舌・身体・心も和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
色乃至法亦如是。
眼界和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故

乃至意識界亦如是。
物質的存在から事物までもまた、同じようなものである。
眼界も和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
さらに意識界までもまた、同じようなものである。
須菩提。般若波羅蜜菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。
是亦不生不滅。
但以世間名字故

是名字不在
不在外不在中間。
須菩提、般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまたこのように、みな和合により存在しているのである。
これまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
この名称は内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもない。
須菩提。譬如身名爲頭但有名字。
項肩臂脊脅髀
膞腳皆和合故有。
是法及名字亦不生不滅。
但以名字故

是名字亦不在
亦不在外不在中間。
須菩提、たとえば身の内にあるようなものも、頭と名づけるのも、ただ名称があるのみ、
くび・肩・ひじ・背・脇・もも・ふくらはぎ・脚も、みな和合により存在しているのである。
この事物及び名称はまた生ぜず、滅さない。
ただ世間にある名称によって説くのである。
この名称は内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもない。
須菩提。般若波羅蜜菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。
但以名字故

是亦不生不滅。不在
不在外不在中間。
須菩提、般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまたこのように、みな和合により存在しているのである。
ただ名称によって説くのである。
これまた生ぜず、滅せず、内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもない。
須菩提。譬如外物草木枝葉莖節。
如是一切但以名字故

是法及名字亦不生不滅。非
非外非中間住。
須菩提、たとえば外物・草木・枝葉・茎節のようなものも同じようである。
一切ただ名称によって説くのである。
この事物及び名称はこれまた生ぜず、滅せず、内でなく、外でなく、中間に留まるのでもない。
須菩提。般若波羅蜜菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。
是法及名字亦不生不滅。非
非外非中間住。
須菩提、般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまたこのように、みな和合により存在しているのである。
この存在及び名称はこれまた生ぜず、滅せず、内でなく、外でなく、中間に留まるのでもない。

須菩提。譬如過去諸佛名。和合故有。
是亦不生不滅。
但以名字故

是亦非
非外非中間住。
般若波羅蜜菩薩菩薩字亦如是。

須菩提、たとえば過去の諸々の仏の名なども、和合により存在しているのである。
これまた生ぜず・滅せず、
ただ名称によって説くのである。
これまた生ぜず、滅せず、内でなく、外でなく、中間に留まるのでもない。
般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまた、同じようなものである。
須菩提。譬如夢響影幻。佛所化皆是和合故有。
但以名字

是法及名字不生不滅。非非外非中間住。
般若波羅蜜菩薩菩薩字亦如是。
須菩提、たとえば夢・響・影・幻・陽炎などのような、仏が変化させたものも、みなこれらは和合により存在しているのであるから、
ただ名称によって説くのである。
この存在及び名称はまた生ぜず、滅せず、内でなく、外でなく、中間に留まるのでもない。
般若波羅蜜・菩薩・菩薩という文字もまた、同じようなものである。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。
名假施設。
受假施設。
法假施設。
如是應當學。
このように、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、
名称は仮に設け施したもの、
感覚は仮に設け施したもの、
事物は仮に設け施したものと、
このようなものとして、まさに学ぶべきなのである。

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著作 アルキメデスの館