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摩訶般若波羅蜜経習応品第三

一、ブッダ、一切の事物はただ名称のみと説く

佛告舍利弗。
菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。
仏は舎利弗(シャーリプトラ)に次のように説いた。
「菩薩摩訶薩
(ボーディサットヴァ:覚りを求める衆生+マハーサットヴァ:偉大な衆生)般若波羅蜜(プラジニャー:智慧+パーラミター:到彼岸、智慧の超越)を行ずるとき、まさに次のように思惟すべきである。
菩薩但有SAT版有色字)名字
佛亦但有字。
般若波羅蜜亦但有字。
色但有字受想行識亦但有字。
菩薩は、ただ〈菩薩という〉名称があるのみであり、
仏もまた、ただ〈名称と〉文字があるのみであり、
般若波羅蜜もまた、ただ〈名称と〉文字があるのみであり、
物質的存在も、ただ〈名称と〉文字があるのみであり、感覚・知覚・意志・意識もまた、ただ〈名称と〉文字があるのみであると。
舍利弗。如我但有字。一切我常不可得。
生壽者命者生者。
養育數人者。
作者使作者。
起者使起者。
受者使受者。
知者見者。
是一切皆不可得。
舎利弗、自我が、ただ〈名称と〉文字があるだけのように、一切の自我や恒常は〈実体として〉認知することができないのである。
衆生における年齢・天命、誕生、
養育、数で分類された(五蔭等)人、
なすこと、なさしめること、
起きること、起こさせること、
受けること、受けさせること、
知ること、見ること、
これらの一切はみな〈実体として〉認知することができないのである。
不可得空故。但以名字
菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜。
不見我不見生。
乃至不見知者見者。
名字亦不可見。
〈実体として〉認知することができない空であるから、ただ名称を使って説くのである。
菩薩摩訶薩は、またこのように般若波羅蜜を行ずるとき、
自我を見ず、衆生を見ず、
さらに知ること、見ることにいたるまでを見ず、
それらを説明するための名称もまた見てはならないのである。
菩薩摩訶薩作如是行般若波羅蜜。除佛智慧。過一切聲聞辟支佛上。
用不可得空故。
所以者何。
菩薩摩訶薩がこのように般若波羅蜜を行ずれば、仏の智慧を除いては、一切の声聞・辟支仏の境地の上に過ぎいくのである。
それは〈実体として〉認知することができない空によるからである。
その理由は何であろうか。
是菩薩摩訶薩諸名字法。名字所著處。亦不可得故。
舍利弗。菩薩摩訶薩能如是行。為行般若波羅蜜。

この菩薩摩訶薩には、諸々の名称という事物も、名称の付けられた対象もまた〈実体として〉認知することができないからである。
舎利弗、菩薩摩訶薩がこのように行ずることができるのを、般若波羅蜜を行ずるというのである。

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著作 アルキメデスの館