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A某の中に共生しているホムンクルスの投稿メール(3):

『共生虫』― 村上龍のギミック(その3)
 ところで『みにくいあひるの子』プロットによる同傾向の先駆的な小説として、西村望の『丑三つの村』があります。あまり品のよくない松竹による映画化(1983年)のほうが有名ですが、ぼくには作品の出来栄えとして『共生虫』のほうが優れているとは感じられません。ただ小説にもブランド品としての扱い方が歴然とあるみたいで、哀れ『丑三つの村』はいまや絶版で、古本屋の百円均一の箱にありました。『丑三つの村』の特徴は、『共生虫』が「現代の病理」とでもいうような極めて意図的なテーマを持つのに対し、何よりも実話に基づく事件そのものに興味の中核があり、そのゆえにギミックらしきものがないという点でしょう。モデルとなったのは、岡山県津山市の北方約6里にある僅々23戸の加茂村で起きた、たった1人の犯人による日本犯罪史上希代の大量殺人事件です。この事件に関しては、筑波昭によるノンフィクションもあって、猟期殺人愛好家には見逃せないものとされています。
 記録によりますと、犯人の都井睦雄は幼いころ両親を結核で失い、幼少より姉とともに祖母に育てられました。都井には、生まれつきに敏感・繊細な面があったようで、肺結核の発病、徴兵検査の不合格、女性関係の挫折などから精神的な葛藤が増幅し、20歳ごろ自殺志向が芽生えました。その後この志向が村人への復讐のための道連れ殺人衝動へと高まり、綿密なる準備ののち、1938年5月21日午前2時、殺戮決行に至りました。まず、鉢巻きの両側に懐中電灯を取り付けるなど奇抜な装備で武装してから、寝ていた同居の祖母の首を大斧にて落とし、つづいて9連発の猟銃、日本刀などをもって民家11軒を次々に血祭りにあげ、2時間足らずのうちに即死28名、重傷死2名、負傷3名を数え、明け方付近の山林で猟銃自殺、本懐を遂げました。死後の精神鑑定によりますと、都井には敏感性と闘争性の性格特性が混在していたうえに、反応性に関係妄想による精神分裂症が成長したもののようです。今の言葉でいえば、都井睦雄はいっちゃったんですね。
 そして『共生虫』のウエハラも。誰だか忘れましたが『共生虫』の読後感想文の中に、「いっちゃった若者を描いたもの」だという文章がありました。まあ、これをこの小説のテーマと捉えるのは全体を観ていないといえるのではないでしょうか。現代の若者が関係する犯罪の実例にはこの種のものが多いのは確かです。ですから、現実の若者の犯罪からヒントを得たとか、社会の未来を予測しているだとか思ってしまう人がいても当然かもしれません。また、作者自信がその気になっているかもしれません。また「いっちゃった」ということを、テクスト上の『みにくいアヒルの子』に対する第3の差異と思う人がいるかもしれません。でも、ぼくはそうは思いません。これこそ双方のストーリーに共通する主題のメタファーといえるのではないでしょうか。みにくいアヒルの子が「白鳥に変身」して空を飛ぶこと。世間から阻害されていた若者が「いっちゃった」こと。この二つの間にどのような精神的な差異があるといえるでしょうか。
 さてこうなってくると、次にメタファーとしての狂気を取り上げざるをえなくなると思います。ぼくの見るところ、憑かれた若者の心理表現において村上龍は破綻しています。狂気を描くのに普通人の視点で心理描写をしているため、読者はウエハラを尋常の精神的世界の人物として読んでしまう訳です。まあ、日本には「狂気の文学」の系譜はないそうですし、まして当邦独特の「純文学」といった不思議な分野ではなおさらでしょう。ちょっと注意しておかなければなりませんが、「狂気の文学」は「不条理の文学」とは違います。つまり「狂人の心理を描くに狂気をもって感情移入する」といった体の文学です。これも当邦文壇の言い方をすれば『共生虫』は「狂人が書けていない」ということになると思います。
 それでも村上龍ファンにいわせれば、この作品は「狂気の文学」などではなく、未来の社会を予測するものである、ということかも知れません。しかし、こういう見方は「引きこもる若者」に対する、ある種の予断を読者に持たせてしまう可能性をもつ、という点で三流マスコミと同罪です。「引きこもり」は犯罪に結びつくという観念形態は、それこそ危険です。目下の社会問題である、つまり精神的な疾患を伴わない「引きこもる若者」は、ある面で心の優しさないし優しすぎる資質を持っていることが多いのだと思います。犯罪を犯す若者は、やはり何らかの精神的疾患をもっているのだと思います。たとえ精神鑑定をパスしようとも。
 話しを戻します。常人には狂人の心がわからない、というのは恐らく真実でしょう。しかし、ぼくには常人には常人の心も本当はわからないのではないかと思います。ただ、自分に投影することによって納得したり、共感したりすることができる、ということではないでしょうか。ですから、小説においてある人物の心理描写あれば、それが常人である限り多くの読者に容易に受容されるわけです。でも、それは作家の技巧によって、読者がそのように読んでしまうということに過ぎないと思うのです。そう考えれば、狂人の心理描写も作家の意図や技巧によって可能になるはずです。それができないのは、作家が本質的に狂人に対して何の共感も持っていないからだと思います。または、わが邦の文壇ではごく最近まで狂人を描くことが一種タブーとされてきたせいかもしれません。実は、ぼくも含めて、すべての人は必ず狂気の胎児を秘めており、常人は本質的に存在しないといっていいと思います。ですから常人は狂人です。「狂気の文学」が書けないのは、その作家が自分は常人だと思いこんでいるからに違いありません。
 ぼくの知る限り「狂気の文学」といえるのは夢野久作『ドグラ・マグラ』をはじめとする作品群だけではないでしょうか。『ドグラ・マグラ』を読むと気が狂う、などともいわれてきました。ぼくは十代の終わりころ予備校の自習室でこの本を読みふけりましたが、時間・空間の倒錯した世界に没入して精神が分裂したような気持ちになったのを覚えています。そういえば、ぼくがA某と共生し始めたのもこのころだったような……

 

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著作 アルキメデスの館