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A某の中に共生しているホムンクルスの投稿メール(2):

『共生虫』― 村上龍のギミック(その2)
 精神科臨床医斎藤環氏の『社会的ひきこもり』によりますと「引きこもり」とは、20代後半までに問題化し、6ヵ月以上自宅に引きこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくい、精神的な疾患を伴わないものをいうそうです。臨床心理の立場からは、社会参加をしないということに限定せず、もう少し広い捉え方をしているようです。しかし斎藤環氏は、一つの医学的な診断名というよりも、むしろ個人や家族、学校など複数の領域にまたがる病理的状態を表す言葉という意味をも示唆していますので、結局どちらの見方もほとんど同じということなのでしょう。
 この説明からすると、『共生虫』のウエハラはどう考えても「引きこもり」ではありませんよね。アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と分類の手引き』によれば、精神分裂病にも「引きこもり」が6カ月以上続くという症状があるわけですが、この本の主人公はこちらのほうなのだと思います。この病にかかると症状として、幻視や体感幻覚が現れるということもあるそうですし。つまり現下の話題語としての「引きこもり」とは別のケースになるわけですね。これは、村上龍という作家一流のギミックではないでしょうか。つまり、この小説を、あくまでもこの現代社会の病んだ状況を象徴するものとしてあらしめるために、この言葉を使ったのだと思います。ぼくには、この小説はこの語を使わなくても作品としては成立すると思うからです。もっとも、ぼくは村上龍の本はほかには全然読んでいませんから、このように感じるのかもしれません。
 ところで話はそれますが、ぼくには「引きこもり」という言葉は、まるで引きこもっている当人の側にその責任を押し付けているように感じられてしょうがありません。つまり引きこもっている若者が自発的にコミュニケーションを拒絶しているかのような響きが感じられ、とてもいやな気持ちになります。実際には周囲から疎外されたり、拒絶されたりしてコミュニケーションを喪失している、という見方がふさわしいのではないでしょうか。インターマニアの皆さま、いかがでしょうか。
 村上龍は冒頭での「引きこもり」という言葉の提示に対し、このことから読者が「疎外」といったニュアンスを感じとるであろうという可能性に賭けて、この言葉を使っているのだと思います。ぼくには、これによって『共生虫』のウエハラを社会から阻害されている状態に位置付けようとしている作者の企図が感じられます。これが成功すれば、ストーリーだけでなくドグマにおいてもウエハラは「みにくいあひるの子」と図式的に同等の地位を与えられることになるからです。
 どうも村上龍の作品は、ファンに蹴飛ばされるかもしれませんが、題名だけ見ても「インザ・ミソスープ」だの「五分後の世界」だの、人目を引く言葉を釣りの餌みたいに提示して、それに食らいつく読者を釣り上げるのが一つのスタイルなのかもしれません。悪くいえば、小説家という職業から利益を上げるために、言葉の時代性とでもいうものを最大限活用しているのではないでしょうか。
 次にもう一つの差異である「インターネット」ですが、これについては『社会的ひきこもり』の著者、斎藤環氏が『私がひきこもった理由』の解説に興味深いことを書いていますので、その部分をそっくり引用します。
 《今のところ賛否あるようだが、ぼくは「ひきこもり」の相談を受けたときは必ずインターネットを勧めている。ひきこもりのわが子にインターネットを与えるなという論調は、二重の誤りをおかしていると思う。一つは、インターネットへの没頭がひきこもりを「悪化」させるという認識。もう一つは、ひきこもり問題への対応を、まるで子供のしつけと同次元で考えていること。テレビも電話も、メディアはそれ自体では善でも悪でもない。これは当たり前のことだ。インターネットの存在は、ひきこもりがちな生活をしながらも、他人と濃密なかかわりを可能にする点で、今後いっそう重要なものとなるだろう。》念のために説明しておきますが『私がひきこもった理由』は『共生虫』よりもだいぶ後の出版です。ここで興味深いのは、斎藤環氏が「引きこもり」の臨床治療の手段としてのインターネットに着目しているのに対し、村上龍はまったく逆の効果を与える危険なものとしてインターネットを捉えているという点です。すなわち斎藤環氏が誤りと主張している認識です。しかも恐ろしいことに、ほとんどの読者にはいずれの判断が正しいのかを直感的に選択することができそうにないし、どちらでも一方の説だけを読めばストレートに「なるほど」と何の疑いも持たずに信じてしまうのだろうな、という気がします。
 つまり、『共生虫』の『みにくいあひるの子』に対する2つの差異は、どちらも村上龍の、読者を釣り上げるためのギミックだったということではないでしょうか。意図的にいろいろとギミックを仕掛ける作家は多いようですが、これを顕に表現すれば論説文になってしまうので、ロマンなど別の形態への転換がうまく行くかどうかが作品の出来栄えを左右するのではないでしょうか。この点、村上龍の自意識には躊躇があるみたいです。それは『共生虫』のいわずもがなの「あとがき」に顕れています。小説におけるギミックを芝居における書割に喩えれば、この「あとがき」は書割を舞台に固定するための鎹またはつっかい棒とでもいったところでしょう。「ひきこもり」「インターネット」を小説の背景、オブジェとして設定したことに自信がもてないことの顕れではないでしょうか。

 

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著作 アルキメデスの館