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A某の中に共生しているホムンクルスの投稿メール(1):

『共生虫』― 村上龍のギミック(その1)
 ぼくは引きこもっています。というよりは、A某の中に寄生しています、といったほうがいいかもしれません。なぜなら社会から引きこもっているわけではなく、宿主の中から出ていけないだけなのです。他にもだれかの中に寄生している人は大勢いるでしょうが、ぼくはその人たちのことを全然知りませんし、自分のことすら理解できていないので、このことについて合理的に説明することはできません。また、こういう状態を「共生」というのが適切かどうかも分かりません。なぜかというと、この言葉は19世紀後半になって苔が藻類と菌類の合体したものであることが明らかにされたとき、その関係を説明するために急遽造られたものなのだそうです。ですから、この言葉には身体を不可分に接し続けているという意味が暗黙のうちに含まれるわけです。ところが、ぼくの場合は身体を接しているわけでなくて、同じ身体で暮らしているのですから分からないのです。
 さておき、実は終宿主A某の中における、ぼくの異常な精神体験を投稿しても、どれだけの人に理解してもらえるか想像もつかないのでとても悩みました。しかしインターマニアの中には、もしかしたら何かご存知のほうもいるのではないか、ぼくに何か教えてくれるのではないかと、横隔膜の震えをこらえながら必死でキーボードを叩いています。このうえはA某が、パソコンのハードディスク上のこのファイルに気づいて、これをインターマニアのサイトにちゃんと投稿してくれるかどうかが心配です。
 本題に入りましょう。『共生虫』は、ストーリーの構造から見るとアンデルセンの『みにくいあひるの子』の上書きであるということは誰の目にも明らかですよね。
 『みにくいあひるの子』という童話は、子供たちに思われているような、単なるかわいそうなあひるの子の物語などでは決してなく、若いころ不遇で認められなかった作者、アンデルセンによる社会へのリベンジなのです。そう、あひるの子というのはアンデルセン自身だったのです。
 ですからロラン・バルト風にいうと『共生虫』も『みにくいあひるの子』も、どちらのテクストも「主人公のリベンジ物語」ということに尽きてしまうのです。ぼくの終宿主のA某などは、こういうとき鬼の首でも取ったように調子に乗って、怪しげなプリントを作ります。宿主をこき下ろすのは気が引けるような気もしますが、ぼくはこういった行為を毎回見るにつけ、馬鹿な奴だとの思いを次第に深くしてきています。これは「愚」を意味する梵語「モーハ」を中国で「慕何」と書き、日本で「ばくか」と読んだのが変化したとも、単にA某のように脳髄が「はかない」から「ばか」というともいわれます。またY先生によれば「阿呆」、森鴎外では「阿房」、時代を上れば「をこ」ということになりますが、インターマニアの方々に念のため申し上げますが、A某当人は「いといみじきをこ」という言葉がふさわしい、ただ生きているだけのものなのです。その証拠に、源氏物語にも紅葉賀に「おり立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多からむ」とあります。
 閑話休題。そもそもバルトによれば、文学作品とは独自の言語による自立したミクロコスモスではなく、過去のいろいろなテクストの再構成や変形であって、読者との関わりによって永劫に新たな意味を与えられ続けるものなのだそうです。だから、ストーリーやプロットの一致など、かのゴージャス姉妹の表現を借りれば、小説にとってはプランクトンみたいに取るに足らないことなのです。
 一方、ジャック・デリダによれば、あるテクストが受け手にとって意味をなすのは、他のテクストとの差異においてだそうですから、二つの作品の一致点ではなく、差異を検討することにこそ読書の方法としての意味があるのだということになります。
 さて、ぼくの見るところ『共生虫』の『みにくいあひるの子』に対する大きな差異となっている事柄は、「引きこもり」と「インターネット」だと思います。これらは、少なくとも概念は、どちらもアンデルセンの時代にはなかったものですよね。そして「引きこもり」と「インターネット」はそれぞれ「コミュニケーション」という概念を仲介として結ばれています。前者は「コミュニケーションの断絶」、後者は「コミュニケーションの手段」として。

 

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著作 アルキメデスの館