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ライ麦畑の阿呆物語 サリンジャーの秘密(2)

【イノセンス文学とは】
 さて「あのパターン」の作品を、これからは仮に「イノセンス文学」と呼ぶことにしましょう。そして、これから『ライ麦畑でつかまえて』がこの「イノセンス文学」の伝統を受け継いでいることを検証することにしましょう。
 世界中の民話や聖典などに多く見られる愚者譚のたぐいは別にして、少なくとも文学的香りを持った西洋の作品に限定すれば、ウォルフラムの『パルチヴァール』が最初のイノセンス文学と思われます。かいつまんで、そのイノセンス文学と解釈すべき部分のストーリーを要約しましょう。
 主人公パルチヴァールは、夫の命を奪った騎士には愛児をならせまいとする母親によって、人里離れた森の奥で育てられます。しかし、パルチヴァールは血統の導きによって騎士への道をひたすら歩むことになります。そして、アルトゥース(アーサー)王の円卓の騎士となって聖杯探求に身を投じます。しかしパルチヴァールは聖杯城ムンサルヴェーシェで、神に罰せられて病む聖杯守護の王アンフォルタスに、その苦しみについて問うことをしなかったという罪を犯し、聖杯を逃したうえに「栄誉なき者、呪われた男」とののしられます。罪の自覚のないパルチヴァールは、神の仕打ちを恨みながら独力で聖杯探求の旅に出ますが、迷誤と苦悩に充ちた放浪の道すがら、「隠者」の導きによって深い神の恩恵を悟ります。回心が成就すると、再びムンサルヴェーシェへの道が開け、彼は老いた城主を難病から救い、聖杯王に選ばれます。

【阿呆物語】
 ところで『パルチヴァール』以後もっとも有名なイノセンス文学といえる作品に、17世紀ドイツの小説家であるグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』という希代の逸品があります。この本は『パルチヴァール』と違って、一人称という形式によって、作者みずから悲惨な体験をした三十年戦争を背景として書かれています。
 主人公「私」は貧しい農民の子でしたが、兵士たちの略奪のために家を焼かれ、父母とも離れ離れになって森の奥に逃げ込みます。森で偶然出会う、老いた隠者は身よりのない、自分の名前も知らない「私」をあわれみ、養子にしてジンプリチウスと名付けます。これはラテン語で「馬鹿」の意味をもつ言葉だそうです。そして隠者は神に仕える道を彼に教えます。しかしやがて隠者も死を迎え、ジンプリチウスは世間に放り出されることになります。
 ジンプリチウスは、隠者が説き聞かせたのとはまったく逆のような、腐ったキリスト教徒の世界のなかで、色々な体験をしながら世間での処世術を学んでいきます。やがて、軍隊の司令官に見出されてジンプリチシムス(ラテン語ジンプリチウスの最上級)という姓まで付けられ、道化にされたり、兵士にされたりします。
 余談ですが、ワルツ王ヨハン・シュトラウスUに「ジンプリチウス」という曲があるのも、この小説の人気を物語っているのだと思います。
 さらにジンプリチウスは、盗賊とか女性のアイドルになったり、狂人に仕えたり、ぽん友とともに巡礼をしたり、探検家になって空を飛んだり水にもぐったり、世界を駆け巡ったり(日本まで!)と、欲望や恣意の趣くまま迷誤を積み重ね、次から次へと姿や生き方を変えていきます。しかし、世の変転に弄ばれ、罪を犯しながらも最後まで失せることのない「イノセンス」によって救われ続け、とうとう人世無常の悟りに達し、神に仕えるために再び森に戻って行き隠者になります。
 最初、ここまでで物語は一応完結しましたが、すぐのちに思いついたように無人島漂流記の続編が付け加えられています。
 『阿呆物語』は、形式の上ではピカレスク小説の影響を受けていますが、なんといっても本質はイノセンス小説です。やがて、これはゲーテのウィルヘルム・マイスターへと引き継がれて、教養小説という分野が確立することになるわけです。

【ライ麦畑の阿呆物語】
 『パルチヴァール』と『阿呆物語』を比べてみると、イノセンス文学としての類似点が浮かび上がってきます。最も重要とされているものは、人は心に汚れがなく無知であっても罪を犯す、というきわめてキリスト教的な主題です。そのつぎに、どちらの作品も主人公の遍歴物語であることがあげられます。
 では、ホールデン・コールフィールドの場合はどうでしょうか。もちろん彼の行状が罪深いかどうかは人によって意見が分かれるところでしょう。しかし、ひるがえってパルチヴァールの罪というのも、現代日本人の感覚からすると単に病人に病気の原因を訊かなかったことの、どこが罪に相当するのか非常にわかりにくいところがあります。またジンプリチウスも、髪を着色しピアスを着けた、だらしない現代の若者の生活と変わるところはありません。つまり、罪の概念は地域、時代に応じた社会の規範によって違うということなのだと思います。『ライ麦畑でつかまえて』の刊行された1951年という時代には、敬虔なプロテスタント教徒の多いアメリカではホールデンの語り口から飛び出す猥雑なスラングの数々を問題として禁書にした学校や自治体が沢山あったそうです。つまり、その時代感覚のもとでは、ホールデンは不良少年であり、不良少年は犯罪を犯していなくても罪深い人物であったのです。

【隠者】
 さらに『パルチヴァール』と『阿呆物語』には、いずれも「隠者」が主人公の成長にとって非常に重要な役割を担っています。私には「隠者と主人公」はセム族一神教における、「神と迷える民」の関係のメタファーであるような気がします。隠者はイノセントな主人公を善導していき、高みへと昇らせるのです。このようなメタファーは類例が多く、他にもたとえばスタインベック『怒りの葡萄』における「元説教師ケイシーと前科者トム・ジョード」などの関係に見ることができます。
 ところで『ライ麦畑でつかまえて』には、隠者は出てきません。ホールデン・コールフィールドに対する隠者はいないのでしょうか。サリンジャーがユダヤ教徒かキリスト教徒かは不明ですが、立派なイノセンス小説を書きながら、隠者を登場させないのは不思議という意外に言葉はありません。
 いや、実はそうではないのです。ホールデン・コールフィールドの1941年から10年間にわたる育ての親である隠者はいます。その人の名は、ジェローム・デーヴィッド・サリンジャー。彼は、1953年ニューハンプシャー州コーニッシュに引きこもり、1965年以降隠遁生活をしています。
 サリンジャー隠遁の謎を追究した書物は人気があるようで、本屋に行けば何冊か見つかりますが、もっぱらその真相を彼のナイーブさに帰着させているようです。しかし、第二次世界大戦にあたって軍に入隊志願したような人物が、そんな理由で隠遁するのでしょうか。やはり真の理由は ―― 主人公のイノセンスを書いた作家は、その責任として「隠者と主人公」という伝統的、根源的メタファーでの決着を自ら引き受けなければならなかった ―― ということだと、私には思えるのです。また、このために彼は宗教世界に踏み込んでいったのではないでしょうか。

 

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著作 アルキメデスの館