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ライ麦畑の阿呆物語 ― サリンジャーの秘密(1)

【サリンジャーは何を書いたのか】
 成績不良で退学させられた17歳の少年が、前年のクリスマス休暇に学校を出てからニューヨーク市の自宅に帰るまでになめた体験を語るという形式をとった現代のピカレスク小説である。『ライ麦畑でつかまえて』について、翻訳者である野崎孝氏は『世界大百科事典』にこのような説明を書いています。しかし、この野崎氏の説明は妥当でしょうか、という問いがこの一文のサブジェクトです。
 ピカレスク小説(ノヴェルではなくロマンス)とは、16〜17世紀のスペインで流行したスタイルで、その際だった特徴は、主人公が下層階級出身であることと、一人称で記述されていることです。内容としては、一般に放浪の主人公がさまざまな人物に仕え、その体験物語をとおして社会を鋭く風刺するものとなっています。
 しかし「ライ麦畑でつかまえて」には、風俗の直接的な描写はかなり感じられるものの、風刺の要素はあまり感じられません。サリンジャーはピカレスクを書いた、という野崎氏の解釈は、いささか粗雑すぎるというそしりを逃れられません。それでは、サリンジャーは何を書いたのでしょうか。

【イノセンスについて】
 最近、Y先生から頂いたもののなかに「イノセンス」という「ことば」があります。このイノセンス innocence という単語は、先生も適切な日本語がないと書かれていますが、最近は映画の題名等あっさりと片仮名で表記することも多いようです。
 チェスタートンの名高いブラウン神父もののなかに "THE INNOCENCE OF FATHER BROWN"という短編集があって、いくつもある翻訳本は、この「ことば」にそれぞれ違う日本語を当てています。「ブラウン神父の無知」(村崎敏郎)、「ブラウン神父の童心」(中村保男)、「ブラウン神父の純智」(橋本福夫)等、いずれも苦しい翻訳が察せられる題名です。
 それでは、英語学習者必携の辞書といわれる COBUILD (1995 edition) は、この単語に対しどう説明しているでしょうか。

1. Innocence is the quality of having no experience or knowledge of the more complex or unpleasant aspects of life.
2. If someone proves their innocence, they prove that they are not guilty of a crime.

 これらを眺めていると、おぼろげに「イノセンス」の概念がつかめてきて、あえて日本語での定義なしに話を進めても何ら問題はないような気がします。
 ところで、主テーマとは断定しないまでも、重要な要素として「イノセンス」を扱っている文学作品は古来「あのパターン」と言えるほどには存します。そして『ライ麦畑でつかまえて』もその伝統ないし系譜のなかに置いて解釈すべき「あのパターン」の作品である、というのがこの一文の要点です。

【ホールデン・コールフィールド】
 さて、これから『ライ麦畑でつかまえて』を見てみましょう。この一人称形式の小説は、ホールデン・コールフィールドのわずか3日間の行状を追った、素描的なものになっています。この作品のなかでは、電話でのそれを含めて、ホールデンと何らかの対話するのは22人。ホールデンの想い出として語られている人物は2名。合計24人の人物について言及されています。この3日間以前の、作品中に言及されているホールデンにかかわる重要な出来事には、作家である兄DBのこと、過去3回放校になっていること、弟アリーの死にまつわること等があります。過去のものを含め作品中のエピソードは、ホールデンにとって悉くある面で受け入れられなかった経験の枚挙となっています。これを「多感な」社会に反抗する十代の少年を描いた小説と解釈する評論家や、それに納得してしまう読者が多いのは確かな事実でしょう。しかし、そのような解釈はあまりにも紋切り型かつ一面的で、作者サリンジャーの意図を掴んでいないとしかいいようがないと思います。
 これは社会の側からすれば排除せざるを得ない規範から外れた少年ホールデンを、社会の側からではなく、少年の側から描いた作品なのです。人世の悪しき面を知らないホールデンが、当然それを敏感に感じ取りながら人々と出会い、それぞれにおける葛藤により迷誤する姿をサリンジャーは描いているのに違いないのです。
 しかも、作品中にはホールデンの「イノセンス」を滲出させる出来事がサリンジャーによって散りばめられています。弟が白血病で死んだとき、ガラス全部を素手で叩き割ったというエピソード。ぽん引きモーリスの仲介でホテルの部屋にサニーを呼びながら、結局何もせずに帰らせたこと。資金が少ないにもかかわらず二人の尼さんたちに10ドルも献金してしまったこと。妹フィービーの通う学校の猥褻な落書きを消しまくったこと。フィービーに接したときの微妙な意識の変化。
 これらは、ホールデンのスラングや若者口語による語り口によって、たくみに突出しないよう配慮されています。読者によっては読み進むうちに、知らず知らずホールデンのイノセンスを徐々に感じ取ることになり、ホールデンという作中人物に共感するようになるわけです。

 

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著作 アルキメデスの館