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村瀬学『なぜ大人になれないのか 「狼になる」ことと「人間になる」こと』

人となる道

 児童文化学者である村瀬学は、1999年冬に『「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いをめぐって』という、原稿用紙4枚ほどのエッセイを書いている。これは、翌2000年9月刊行になる本書の『第1章−2最初の問いかけ』とほぼ一致する。おそらくこのエッセイをもとに、1年にわたって構想を膨らませて1冊の本に仕上げた、というのが真相であろう。
 しかし、この本は「狼になる」こと、という持論に偏重し、肝心の「人間になる」ということについては何をいっているのか、さっぱり要領を得ないというのが第一印象である。
 村瀬学はこの本の冒頭、次のように書いている。

 いつの世でも、生き物は「大人になる」ためには、どこかで「狩り」をし「獲物を捕る」訓練をしなければならないはずなのだ。どこかで強く自分の意志を出さなくてはならないときがくる。いつも「やさしく」「誰も傷つけないように」するわけにはゆかないときが。その意志をこの本では「狼になる」ことと呼んでいる。

 「大人になる」ことすなわち「狼になる」こと、といわんばかりの、しかし極めて曖昧模糊としたこの文は、「大人」の定義としてはまったく受け入れることはできない。
 ところで『若者はなぜ大人になれないのか』という本があるが、村瀬学ないし編集者がこの本を意識していたと考えることは妥当であると思う。この本では、村瀬学の本とは違って、「大人になる」ということが明確に定義されている。野村一夫氏による書評から引用しよう。

 「大人である」とは「自立したシティズンシップをもった状態」である。シティズンシップとは、言ってみれば「社会への完全な参加」のことだ。さまざまな権利と義務を果たす市民であること。雇用され、税金を払い、それなりの政治的権利と社会保障の対象となることを意味する。

 この定義は、欧米における文明的社会人の標準的認識のような感じを受ける。
 しかし、村瀬学の主張はこれとは違って、「大人である」こととは「狼である」こと、のようである。鵜呑みにした人はともかく、疑念を覚えた読者は以後の説明にも納得できずに、木戸銭だけふんだくられて外に放り出されるようなものである。こういうことを破綻という。
 私には村瀬説よりは、むしろ逆の表現である「狼が大人となる」という定立のほうが妥当だと思われる。たとえば『ピノッキオの冒険』はこのような構造をもっており、長期にわたって愛読されてきた。そして、これらの作品の前提には次のような考え方があるものと思われる。
 人は生まれたときは決して無垢ではなく、混沌とした状態にある。それが成長とともに分化して意識ができあがってくるわけだが、子供のうちは(社会的に)「悪なる意識」と「善なる意識」の調和がとれていない。こういう状態を「社会性が身についていない状態」というわけである。未だ「狼である」状態といってもいいかもしれない。人はさらに成長していくとともに、「善なる意識」が「悪なる意識」をコントロールするようになり、「大人である」といわれる状態になるのである。この一連の変化を「人となる」というのだと思う。ピノッキオは、この道をたどることによって人となるのである。一つ注意しなければならないことは、「悪なる意識」は大人になっても決してなくなることはなく、不滅であるということである。中島敦『山月記』は、この延長線上に把握すべき作品である。「人となる」ことに失敗した李徴の、悲哀のものがたりとして。
 ところで、この本は冒頭に「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに対する、大江健三郎、永井均、小浜逸郎の3人の言説を提示しているので、さらに村瀬説を展開するのかと、思わずこちらも身構えると、それを肩透かしされ、そのまま進行し拍子抜け。読者は最後までフラストレーションを感じたまま本は終わってしまう。「人と思わないから殺す・・・」という説は幻術である。村瀬学を入れて4人の主張の中で、ただ一人まともなのは哲学者永井均である。他の著作を読んでみると、他の3人にはほとんど見られない、極めて高い宗教的境地に到達していることがわかる。
 人は、相手を自分と同じ人だと思っているからこそ殺すのである。人と思わなかったら殺す意味はまったくない。
 殺人事件を起こした若者は少数派である。極少数派といってもかまわないと思う。いや、一般に殺人を犯すものは、犯さないものと比べれば少ないに決まっている。1997年の統計によると、日本で起きた殺人は 1,218件である。1人が1人を殺したとしても、殺人犯人は年間 1,200人程度しか発生していないことになる。老若男女含めて、10万人に1人が殺人を犯してしまうということのメカニズムを、「狼になる」という珍説・怪説・愚説でもって解釈しようとしても、それは無理というものである。サンプルとしてあげている、近年有名ないくつかの事件は、確かにそれぞれ異常性を示しており、おぞましいものであった。しかし、10万人の中のただの1人がその犯行に及んだ、という現象を「狼になる」という説によっては、ひとことも解明していない。
 さらに、最後に書かれている「人間になる」ことに対する「外国人になる」という比喩は、若者の成長とともに共同体分裂感覚が芽生える、という錯誤である。若者は成長とともにスコープを広げていき、その過程のなかで異部を吸収していくことによって、自分の「シティズンシップ」を確立していくのである。異部を認識し、拒絶することによって疎外感が育っていくという考え方は誤謬である。
 児童文化学というのは、このように児童を対象として捉えるのであろうか。あらためて村瀬学は宗教観を持たない人間の一人なのである、といいたい。

 最後に、江戸時代に仏教を再興した学僧、慈雲尊者の言葉をひとつ。

 「一切衆生は我が子なるに由りて、一切有命のものに對すれば不殺生戒と名くる。此に我が子といふは世間親子の間は睦まじきものなるによりて、之に比べて説いた言ぢゃ。實は一切衆生の心念思慮を以て自己の心とすることぢゃ。自身と一切衆生と平等にして元來隔てなきぢゃ」

 

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著作 アルキメデスの館