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リレーエッセイ・心を覗く窓

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いをめぐって


村瀬 学  Manabu Murase

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 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いをめぐって、あちこちでホットな議論が展開されている。大江健三郎氏の「そんな問いは発するべきではない」という発言を受けて、哲学者の永井均氏が、「なぜその問いを立ててはならないのか」と怒りを露わにし「どうしても殺したければやむをえない……これが本当の答えだ」(『これがニーチェだ』)と挑戦的に書いていた。小浜逸郎氏は、呉智英氏との対談(『現代詩手帖』98/11月号)の中で、こういう問いの流行への嫌悪感を示しながら、この問いはそういうふうに問うべきではなく「なぜ人を殺してはいけないのか、と人間は考えるようになったのか」という系譜的な問いに転換して問われるべきであるとちょっとかわったことを言っていた。

 私はというと、どうもこの問いかけには、どこか落とし穴があるのではないか、としきりに感じてきていた。というのも、この問いの発端となった神戸の少年は、「人」を殺そうとしたわけではなかったのではないか、と私はずっと感じてきたからだ。もしそうだとしたら、考える道筋が、多くの議論と違った所で考えなければならなくなる。

 たとえば神戸の少年は、小学校の友人に次のように語っていたという(テレビのインタビューから)。「夢の中に神様が現れて、自分は本当は人の子ではなく天使なんだ、この世の「NG」(no good)というものを排除せよ、そういうふうなお告げがあった、この世に間違って生まれた者たちを地獄に送り返せ、って」「俺に似たタイプはおらんし、俺はこの世界で一人神の使者だから、そこら辺の愚民とは訳がちがうんや」と。

 また、淳くんをいじめていた時に、「あいつは天使の俺に殺して欲しいんや、俺ならやって(殺して)やれる」と言っていたという。

 ふつう「人殺し」という場合は、「人が人を殺す」場合のことをいう。しかし、どちらかが「天使」や「神の使い」であると思っていたり、どちらかが「NG」とか「間違って生まれた者」と見なされるなら、そこで実行される「殺し」や「虐殺」は、「人殺し」という観念とはずれる可能性がある。

 私はかつて七〇年前後の大学闘争の中で、レーサー用のヘルメットをかぶり、分厚い角材をにぎったアジテーターが、並ぶ機動隊への突入を前に、「やつらを殺せ! やつらをかぼちゃと思え!」と叫ぶのを恐怖して聞いていた記憶がある。おそらくそうなのだろう。相手が「人」であれば、「殺せない」。だから、神戸の少年は「相手」を「NG」と見なし、旧陸軍は中国人を「丸太」と呼び、ナチスはユダヤ人を「糞」と呼び、平然と「殺し」を実行したのだろう。そういうふうにやれ(殺れ)ば、それは「人殺し」にはならなかったに違いない。そしておそらくあのオウムのサリン事件の時も、そういう観念の操作が作用していたように思われる。

 もしそうだとしたら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの立て方は、あまり実状を問う問いになっていないことになる。彼らは「人」を殺そうとはしていないかもしれないからだ。一般に、「人殺し」を「問題視」する人たちの頭の中には、「殺す者」と「殺される者」は、互いに相手を「人」として見ていることを、簡単に前提にしているところがある。しかし、信じられないような「殺戮」が実践される裏には、おそらく「相手」が「人」と見なされなくなっている可能性があるのだ。

 もしそういうことが起こり得るとするなら、そこで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てても、リアリティーを持たないことになる。実状に即して問えば、問い方は「なぜ人は、人を人でないものと見なせる時があるのか」という問いになるからだ。ここには「人という観念」の危うさ、曖昧さが見え隠れしている。事態はそう簡単ではないのだ。女性の中学教師を刺殺した生徒も、あの時、彼女を「人」と見なせなくなる瞬間を体験していたのではないか。小浜氏の言うように、問いはもっと言い換えられなくてはならないと私も思う。

 

(次回の執筆者は小浜逸郎氏です。)


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