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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は『ファウスト』の再話では?

 『世界の終り・・・』を読んでいる時点で、仏教の「三界唯心」説の小説化であると非常に強く感じました。さらに読み終わってみると、ゲーテの『ファウスト』との類似性を直感し、再話説を持つに至りました。以下は筆者が寄生しているあやかしの読書会で使ったレジュメです。

1.村上春樹のことば

『世界の終り・・・』について
 あれは結構緻密な話なんです。だからすごく気を使ったし、むずかしい話だし。バランスも最初は「ハードボイルドワンダーランド」が長くて「世界の終わり」が短いんだけど、だんだん位置が逆転していくんです。そういうのも自然にできていくんです。どっちも結論がなかったんですよね。一つの話で結論がないというのは、『羊―』のときがそうだったけど、何とか持っていけるんですよ。順番に歩いていけば何とかなる。ところが二つの話では順番に歩いて両方が同時進行で最後に合体しなくちゃいけないわけでしょう。これは最後までどうなるか、どうしていいかわからなかったですよね。ほんとにきつかった。
 いま読むと、自分なりに破綻が見えるんです。もう少しうまくできたなと思うんだけど、まあ精一杯ですよね。たぶんあれは自分後からよりハードルが一段か一段半高いんです。それを何とか飛ぼうとしているところがありますよね。(Book)

『街と、その不確かな壁』について
 『―ピンボール』が芥川賞の候補になって、何か書けといわれたんです。『群像』には受賞第一作を書いたから義理を果たしたし、一つ書けるかなと思ったし、あの話は書きたい話だったんです、ずっと頭の中にあって、『街と、その不確かな壁』というタイトルで百枚のものです。『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の原型とでもいうべきでしょうか。ただ、あれは失敗だったんですね。というのは、ああいうことはやるべきじゃなかったんです。僕はいまでも後悔してる。受賞第一作用なんて書くべきじゃなかった。これは声を大にしていいたい。(Book)

2.『ファウスト』の読み直し

 『ファウスト』第2部最後の「合唱する深祕の群」の1行目「一切の無常なるものは只映像たるに過ぎず。」が鍵である。「聖書・創世記」冒頭の、神による世界創造の部分を読むと、キリスト教の教理は実在論のように感じられる。しかしキリスト教徒ゲーテによる、この句はきわめて非キリスト教的に感じられ(cf.諸行無常;色即是空)、『ファウスト』を唯識説の戯曲ととることもできる。こういう見地で『ファウスト』を読み直してみると、この戯曲中で起きることは全てファウストの意識中の形象である、という結論に到達する。

3.唯識説について

 古代インド哲学から5、6世紀の大乗仏教にまで続く大きな流れに唯識思想がある。初期大乗仏典である華厳経十地品の中心命題である「三界唯心」から発展した「瑜伽行唯識派」の教理は精緻を極める。西遊記で有名な玄奘三蔵が唐に招来し法相宗の礎となし、我が国の法隆寺、薬師寺等に伝わる。教理をごく要約すれば、心の外に対立する実在を認めず、世界は心の働きによって存在しているかのごとく認識される、という思想。認識に対し、汚れであるというネガティブな価値を与える所が西洋の認識論などと違う。

4.『世界の終り・・・』

 この小説も当然『ファウスト』と同じく、主人公の心の中に存在する世界を描いたもの、という解釈が可能である。しかも2つの表象世界を同時進行の形で進めており、いずれの世界も我々の日常体験している(と意識している)世界と程遠く、まったく実在らしくない世界がリアル(?)に描かれている。

5.二作品の対比

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が『ファウスト』を模して書かれている(ように感じられる)ので、直感的に思い付いた対比点を表に示してみる。いずれも非現実的であり、主人公の意識の中の形象と考えられる。

『ファウスト』(森訳)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
第一部と第二部(シリーズ) 「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」(パラレル)
神によるファウストに対する実験 老博士による「私」に対する実験
メフィストフェレスがファウストの部屋を来訪して契約を持ちかけること 「私」が老博士に呼ばれて研究所を訪ね、博士の娘に会うこと
メフィストフェレス 門番・老博士の娘
ライプチヒなるアウエルバハの窖の場面 スーパーマーケットのパーラーの場面
マルガレエテ(グレエトヘン) 図書館の女性(両方の世界)
グレエトヘンの花占い「お好。お嫌。お好。お嫌。」(瓣を一枚一枚むしる) 図書館の女性との食事(次から次へと食べまくる)
メフィストフェレスが体験させる世界 闇の世界・壁の内側の世界
得業士、はやとり、かたもち 記号士、やみくろ(語感の類似)
小人Homunculus(心だけで身体がない) 森の発電所の番人(心を捨てきっていない)
天上の合唱 音楽の喪失
ファウスト「とまれ、おまえはいかにも美しいから」 「僕」が壁の内側の世界に留まる決心をする
メフィストフェレスの手からファウストの魂が逃げること 影が渦に飛び込み、壁の内から逃げること=「私」の終わり
グレエトへンによる救済、昇天 図書館の女性と森に、永遠の世界の獲得

6.まとめ

 作者の言葉からはこの類似性に関する意図は感じられない。しかし物語をバルトの言うように一つの文に摂した結果が同じ文(三界唯心)になったとすれば、標記の再話説も単なる思い付きとは言えないと思う。もし再話でないとすれば、共時性ならぬ共識性とでもいったものが考えられる。人間の深層意識はさらに深いところで結合しているのかも知れない。
 作家論的作品分析に代わる、共識的構造化とでもいうような作品分析法などもあって良いのではないだろうか。読む立場から自由な解釈をし論評するのは、小説家という職業に対する「お客」の当然の権利である。

 

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著作 アルキメデスの館