INDEX  PREVIOUS

「こころ」は壊れるか(2)

「なるほど。先生のお蔭で蟠りの一つが吹っ切れました。ではこの後の部分はどうなのでしょうか」
「この辺もまったく新鮮味はないですね。20年以上前の本ですが、なだ いなだの『くるい きちがい考』で疾っくに云い尽くされている気がします。対話形式で書かれている事など類似点は多いですが、まあ焼き直しとは云い切れないでしょう。本としては古いですが、精神病や神経症の捉え方など的確に説明されていますし、私には遥かに上等だと思えますね」
「そうでしょうか。しかしその時代にはDSMのような分類の基準はなかったのではありませんか」
「確かにDSMという名称自体は出てきませんが、なださんがこの本を書かれた時には疾っくにありました。恐らくその頃はまだ専門医の世界に留まっていたという事ですね。マスコミに対してしたり顔で専門用語を並べ立てる輩がいなかったのではないでしょうか。しかし、中味は明らかにDSM批判をしています。ですから――こんなふうにDSMについて突っ込んで批判してくださったのは滝川さんがはじめて――というのは明らかに著者の知見不足ですね」
「――テレビで発言される精神科医の方々はあまりに無自覚過ぎる――という事が書かれているわけですね。でも本当は無自覚なのではなく、的確な説明ができないから専門用語を並べて体裁を取り繕っているという事ですね」
「マスコミもいけませんね。説明ができない医者に無理やり喋らせようとするからですよ。医者として一流でも、口唇皮に光明という事は云えませんからね」
「その後に、神戸の事件の話から犯罪者の精神鑑定、精神医療の話へと移っていくわけですが、これは大安売りの目玉商品といった感じで味が良くないですね」
「あなたもそう感じましたか。どのような立場に立つにせよコーズ・セレーブルは絶好の目玉ですからね。この本はマスコミがこのような事例を不適切な文脈で取り上げる傾向を批判しているわけですが、この批判自体も一般読者からすれば同列に置かれる事になる、というわけですね」
「そうですね。木乃伊取りが木乃伊になるを地でいっているという事ですね」
「そうです。かといって近松門左衛門のように事件の精神病理面を見事に総括しているという事もありませんね」
「それ何なのでしょうか」
「境界性人格障害者のコーズ・セレーブルを、演劇作品とはいえ日本で最初に分析し表現したのは十八世紀初めの近松門左衛門なのです。河内屋与兵衛の犯罪実話から見事に結実しています。『女殺油地獄』というのがそれで、元使用人だった継父、甘やかす母親、愚連る息子、家庭内暴力、放蕩、美貌の若妻への思慕、切れる若者、思慕から殺意への遷移など、現代のマスコミが喜んで飛び付きそうな、あらゆる要素を分析して問題を浮かび上がらせています」
「しかしその時代に精神病理学は、まだ日本には入って来てはいなかったんではありませんか」
「あなたが本気でそう思っているとしたら、この本に心を染められてしまったのではありませんか」
「とおっしゃいますと」
「精神病理学は欧羅巴の専売なんかではありませんよ。近代西洋が他の地域を未開のものとして低く見ていたため、自ら優位性を自覚するようになってしまっているだけです。心の理論を学ぶ日本人は、この事をもっと知る必要があります。話を戻して、近松門左衛門は十代の後半に京都で公家に仕えながら和漢の古典を勉強していたそうです。そこで知識を得たのだと思います」
「そのような学問があったのですか」
「隋の時代に撰述されたと伝えられる『諸病源候論』という書物では、滝川先生の云う古典的三分法とほとんど同じ考え方で精神病を捉えています」
「隋ですか。古いですね」
「実践的なものとしては性相学がありますね。これは三国伝来の南都佛教の典籍から日本で発展したものです。しかし残念ながら現代日本では西洋の学問が主流となり、学ぶ人は少なくなってしまいました。淋しい事です」
「本当に淋しいですね。先生のよくおっしゃる淋しいという事の意味が私にも解って来たような気がします。結局この本はDSM批判のような事を書いていますが、そもそも同じ流派の中での論争に過ぎないという事ですね」
「お分かりになりましたか。蝸牛角上の争いです。この本に、心とは何かという事の説明が欠落している理由もそこにあるのではないか、と私は思います。実際はこの、心とは何か、という問い自体が可能なのかという吟味も必要ですから、誤魔化しといわれても詮無い事でしょう。心が心自体を把握できるのかという事ですね。例えて云えば、自分の目で自分の目を見る事が出来るのか、というような事に匹敵する問いです」
「そういえば、『こころ』はどこで壊れるか、という良く解らない題名ですが、これに関しても同じ事が云えるのではないでしょうか。心とは何か。心は壊れるものなのか。心が壊れるとはどういう事なのか。こういった事の説明が何もないまま、どこで壊れるか、というのは全く無茶な題名ですね」
「確かに心が壊れる、と云うのは奇天烈な表現ですね。昔から使ってきたのは、心が痛む、心が動く、心が通う、心が騒ぐ、心が弾む、心が晴れる、心が乱れる、それから私の好きな心が洗われる、と云う云い方でしょうか」
「狂うとか、気ちがい、憑物などという言葉を使う事が憚られる世間になってきたために考え出した表現でしょうか」
「そんなところでしょうね。でも、ちっとも配慮したような気がしませんね。誰の言葉だったか、形ある物は壊れる、というのがあったと思います。これは佛教の無常観が根底にある表現です。壊れるという言葉は、この様な意味で理解され使われてきました。壊れた茶碗は元に戻らない、という感じですね」
「なるほど。すると心が壊れるというのは、壊れてしまったらもう元には戻らないという事が背景にあるわけですね。気が狂ったらもう直らない。嫌な表現ですね」
「いや、言葉はそのように使われても、実態とかけ離れた事かも知れませんよ」
「標準から少し外れたような人に、心が壊れている、という烙印を押してしまう可能性ですね」
「そうです。的を外して、表面に浮かび上がってきた事だけを捉えて記事にするような、マスコミの姿勢と似ていますね。浄化槽で浮かび上がってきた滓をスカムと云いますね。スカムはだめです。あなたもスカムに頼らず、物事の根本を自分で考えるようにしなさい。徹頭徹尾考え続ける事です。そして、最後にもう一言。私なんかにも頼らないようにして、本をお読みなさい。私の感想だって、どの道あなたにとって人惑でしかないのですからね」

 

INDEX  PREVIOUS

 

 

 

 

 

著作 アルキメデスの館