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「こころ」は壊れるか(1)

「また来ましたね」
「ええ来ました」
「私は淋しい人間です。私は淋しい人間ですが、事によるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋しくはありません。動いてはいませんが本を読んでいますから」
「本当ですか。それなら何故あなたはそう度々私の宅へ来るのですか。」
「本の感動を先生と分かち合いたいからです」
「あなたは私と話しても、おそらくまだ淋しい気がどこかに残るでしょう。私にはあなたのためにその本の感動を分かち合うだけの力がないのですから。あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
「私は最近、ある本を読みました。佐藤幹夫さんとかいう人が滝川一広さんという精神科の先生にインタビューして、まとめた本なのですが」
「ああ、それなら私も読みましたよ。こころは壊れるか、とかいう本でしょう」
『こころ』はどこで壊れるか、です」
「やはりあなたは淋しい人間ですね。この題名に引かれて買ったのでしょう」
「そういう訳でもないんですが。今日は思い切って先生のご意見を是非お聞きしようと思って参りました」
「あなたはこの本を読んで何か思うところがあるのですね」
「その積りですが。その事について先生にお聞きしたいと思って来ました」
「あなたはまだ若いです。この本から掴んだものなんかに囚われてはいけませんよ。そもそも序章に――この本全体をとおしての基調音は「『こころ』というものはいったいなんなのか」――と書いてありますね。基調音というのは、ある地域に固有の暗騒音、延べつ聞こえているような音でしょう。つまり、この本全体の主張のモチーフであるという事の比喩なのでしょう。紋切り型ですね」
「そう思います。ところが実際は、この本を読んでみると結局、どこまで読み進んでいっても、心とは何か、という説明にも仄めかしにも行き当たりません。どういう事なのでしょうか」
「よく気が付きましたね。確かに――脳との因果関係で「こころ」を説明する事は昔から行われていた――などという事が断片的に書いてあるので、ヒポクラテス辺からの心についての解釈を説明するのかと期待する人もいるでしょうね。でも残念でしたお客様、あなたの引いた籤はスカでした、というようなものですね。挙げ句の果て――「こころ」とは、もともと不自由さを本質としています――とは無責任極まりませんよ。不自由さなど、確かにそういう事はあるでしょうが本質なんかであるはずありませんよ。こういうところに騙されてはいけません」
「なるほど。そういう事だったのですか」
「――精神的な失調とは、この折り合いがどうにもうまくいかなくなった状態だろう――などという云い方なども、尤もらしく聞こえますが、何の説明にもなっていません。人惑です。あなた『臨濟録』読んだ事ありますか。爾如法の見解を得んと欲さば、但だ人惑を受くること莫れ、と書いてあります。あるがままの真理を求めるなら何からも惑わされないようにしなさい、という事です。そもそも滝川先生の発言は考えに考え抜いたうえに到達した認識というようなものではなく、気儘に喋っているように感じられます」
「成る程、宜なるかなですね。今年の四月にこの本が発行されたのですが、未だに第一刷が本屋の棚に並んでいるというのも納得できます」
「お茶でもお上がりなさい」
「はい。ありがとうございます。それから第1章の――「こころ」はどうとらえられてきたのか――というのもまた、期待に胸膨らむ表題ですが、此所も読んでみると、そんな事何も書いてありませんでした。著者のはったりでしょうか、それとも書くのを失念したのでしょうか」
「あなたはそう思うのですか。さてさてどうでしょうね。滝川先生のお仕事を考え合わせると、ついつい『狂言』に詐欺師ものが多いという、偶然といえばまことにまことに偶然の啓示、とでも云いたくなりますね」
「実際のところ、この本の主題は『精神医療批判』といって可いのでしょうか。」
「いやいや、――精神医学の黎明期にグリジンガーという精神医学者が「精神の病は脳の病である」と述べて――云々と、まるで脳の病という説を否定するような下りがありますから、『医療』という言葉すら批判しているようにも感じられますね。とにかく分裂病にかかったみたいに話題がぽんぽんと飛びまくるのがこの本の落ち着かない原因で、それぞれ納得のいく説明を待たずに佐藤さんは滝川先生への質問を切り替えてしまう癖があるようですね」
「だから私には苛立ちが残っているんですよ。まったく人を神経症にしてやろうと言わんばかりです。ああ、すみません。つい興奮してしまいました。話を『脳の病気』に戻しましょう。ええと、此所で『頭』という言葉の用法についての質問がありますが、ご多分に漏れずこれにも答えを出さないで済ましていますね。でもこの本の基調音であると標榜する事柄に強く関連する事ですから、それでは済まされないのじゃないですか」
「まったく私もそう思いますよ。欧羅巴ではアリストテレスが心を心臓に結び付けて以来、近代までその影響が続いてきました。しかし中国の書物などには頭と心が結びついた表現は少なくとも九世紀後半には既にありました。その証拠として詩をひとつ教えてあげましょう。晩唐の詩人杜荀鶴(とじゅんかく)の作品です。

 『旅舎雨に遇う』
月華星彩坐来に収まり
岳色江声暗に愁いを結ぶ
半夜燈前十年の事
一時に雨に和して心頭に到る

というんですがね。どう考えても杜荀鶴は頭にこころが宿っていると信じていますね。実にしみじみとした詩じゃありませんか」
「確かに。実に渋い表現ですねえ。怒りは心頭に発するが、想い出は心頭に到るですか。ではこの本で説明が途切れた脳との関係はどうなのでしょうか」
「漢語には脳天という言葉があるのを知っていますね。実は天という字は元々神仙のいる処の意味ではなくて、人間の頭という意味だったんですよ。つまり脳と頭とは切っても切れない存在なのですよ」
「そうですか。頭と脳と心は密接に繋がりあった存在だったのですねえ」
「わかりましたか。もう一つ杜荀鶴の詩をお教えしましょう。

 『夏日悟空上人の院に題す』
三伏門を閉ざして一衲(いちのう)を披(ひら)く
兼ねて松竹の房廊に蔭なし
安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
心頭滅却すれば火も亦た涼し


これは余りにも有名です。あなた聞いた事あったでしょう。この詩に出てくる心頭はさっきのよりも更に心の深いところの意味で使っていますね」
「でも、今までのは中国の話でしょう。日本ではどうなのでしょうか」
「日本の事ですか。そうですね。例えば中世の古語では『平家物語』に、脳に一撃を与えるという文があって、そこでは脳の事を『なずき』と言っています。この『なずき』が近世になりますと頭の意味に変わってきます。つまり意識的には頭と脳は一緒なのです。東北や北海道には今でも額の意味で『なずき』という言葉が残っていますよ。ところで我々が相手に敬意を表すために頭を下げるのは、相手の心よりも自分の心を低く置くという事なのですね。お辞儀は何時頃からの習慣か知りませんが、かなり古くからあるようです。西洋人には頭を下げて相手に敬意を表すという習慣はありませんが、これは頭つまり脳に心があると思っていなかったからだと思います」

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著作 アルキメデスの館