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近代知さん、あなたの推理は間違いだらけ―その2

――『教養としての大学受験国語』についての石原千秋先生への手紙(2)

【ヴィッテンベルクの鶯は絶滅したか】
 マルチン・ルター(1483‐1546)は、神の言葉としての聖書のみに権威を見出し、1517年、キリスト者としての良心を賭してローマ教皇権の批判を行いました。これが宗教改革の初めとされています。それまでにヨーロッパにおけるキリスト教は、哲学、思想、政治、社会、芸術、文化など、あらゆる分野に深く浸透し、さらにある面では逆規定にまでも至っていました。そしてこの改革と、その結果として成立したプロテスタンティズムは、ルネサンスと並んで、近代ヨーロッパの形成にとって、重要な意義をもつことになりました。この宗教改革は、辞典における近代の説明には明確に書かれていますが、それが「市民社会と資本主義を特徴とする時代」を招来したということを書く人は、あの新潟県の鳥のように、現代日本では絶滅しかかっているようです。
 しかし、近代からポストモダンへのダイナミックな変化は、少なくともヨーロッパにおいては「神」を軸として見ていかないと、ヴォルテールもどきの「歴史は自ら恣意的に運行する」とでもいった定言を立てるのでもない限り、理解できないはずです。前節にあげました、4人の17〜18世紀のキーパーソン達の仕事も、本質的には宗教改革の結果としての、人と神との関係の見直し、という大きな流れの中の一刹那として見るべきものだと思います。
 13世紀イタリアの神学者、トマス・アクイナスに由来する「神」の、見直しとしての近代。ショーペンハウエルやニーチェが「神」を引き摺り下ろした、近代のデカダンス。神々の黄昏。そして「神」に代わる価値を模索する脱近代。ポストモダン。現代。
 石原先生がこのような宗教史観を持たれないということは、この本の冒頭に「ぼくは思想一般を信じていない」と書かれておられることから推測できますが、入試問題の文章の中には、こういう見方はないのでしょうか。

【アンソロジーはオッソロシー】
 最後にもう一つ疑問を提示しましょう。それは、この本全体の依って成り立つ、と先生が書かれている竹内 啓の文章を、そもそも筆頭に取り上げたことの妥当性への疑問です。

 日くらし、パソコンにむかひて、インターネットを検索していくと『1997〜1999現代文頻出著者名簿』なるものが見つかります。フィヒテの専門家であり、某予備校講師でもある石井 励氏が調査し、自分のサイトで公表しているもので、非常に興味深いものです。この名簿に挙げられている著者名を、試みに石原先生の『教養としての・・・』に取り上げられた17例の著者15名と比べてみると、なんと次の6名しか合致しません。

(石井講師の分類)

 

(『教養としての……』に取り上げられた著者)

出典ベストテン

山崎正和

超頻出

田中克彦

頻出

今村仁司;柄谷行人;鷲田清一;阿部謹也

これはなんということでしょうか。ちなみに石井講師があげている著者の人数を以下に示します。

出典ベストテン

: 11名

『朝日新聞』を含む

超頻出

: 22名

 

頻 出

: 33名

 

合 計

: 66名

 

以上のうち、この本に取り上げられている問題文の著者で、この66名に含まれているのが、たった6名であるということは、試験問題に頻出するという視点から著者をセレクトしたということは考えられません。もちろん竹内 啓も含まれていませんね。竹内 啓を含め残りの9名は、石原先生が何らかの意図をもって取り上げたということなのでしょうか。
 各章の標題に付されたキーワードによって出題を分類されたというのであれば、キーワード別の出題頻度もさることながら、キーワードごとに例題として選択したものの根拠も公表すべきではないでしょうか。各キーワードごとの問題が、5章の3題を除き、平等に2題ずつということは不自然です。実際、公認会計士試験の問題が2問、それぞれ「身体」と「国民国家」のキーワードに配当されています。このことは、取りも直さずこのキーワードに該当する大学受験問題の出題例が少ない、ということを物語っているのではないでしょうか。
 一体この本は、大学受験国語をサブジェクトとした論考なのでしょうか。いや、序文に書かれているように、もう一方の、教養書としてのあり方に重点をおかれているのでしょうか。などといった疑問も自然と湧きあがってきます。
 ところで、序文には「さて、収録した問題文は、さながら現代思想のすぐれたアンソロジーのような様相を呈することになった。」という感慨めいたことも書かれています。実は先生は、この「現代思想のすぐれたアンソロジー」の作成が目的だったのではありませんか?
 このために、『1997〜1999現代文頻出著者名簿』に載っていない、竹内 啓の文章を意図的に採用されたのではありませんか?
 「大学受験国語」という標題は、先生の仕掛けたギミックなのではありませんか?
 アンソロジーを編むということは、ひとつの信念を持っているということである、ということではありませんでしょうか。
 このように信念をもってテクストを再構成することを、中国仏教の用語で「教相判釈」といいました。中国仏教の祖師たちは、インドから伝来した膨大な経典から選りすぐり、さながらアンソロジーを作ったのでした。その際、祖師たちの原則としたことは彼らの信念にほかなりません。ドグマというやつですね。
 先生は「思想一般を信じていない」と書かれておられます。思想というのは意識的なものです。もし何も意識しないで何らかのドグマを持たれているのであれば、それは思想ではなく信仰というものです。何らの疑いもなく信念となっているもの。
 もしかしたら先生は、ご自身で「神」に代わる価値を持っておられるのではありませんか?

 最近読んだ本で、私の脳髄に強烈な印象を残しました、ニーチェのアフォリズムを、最後にご紹介いたしましょう。

 「思想(見解)を持つということは、魚を持っていること、つまり魚のいる池を所有していることだ。魚がほしければとりに行き、そして運がよくなければならない。――こうして自分の魚、自分の思想が手にはいる。私がいいたいのは生きた思想、生きた魚のことである。化石標本室をもっていて、満足している人たちもいる。――彼らの頭の中には〈信念〉がある。」(氷上英廣訳)

草々

 

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著作 アルキメデスの館