INDEX  NEXT

近代知さん、あなたの推理は間違いだらけ―その1

――『教養としての大学受験国語』についての石原千秋先生への手紙(1)

前略 私が毎度作っていますレジュメの作成手法は、実は石原先生の研究から大いに、ぱくらせて頂いております。始めに、このことに感謝の念を表明いたしますと同時に、これから書かせていただくことが、後悔あとを絶たずとやら、先生のご勘気に触れることになるのはまず確実ですので、あらかじめ陳謝いたします。

【自我はどこに行った?】
 先生は『はじめに』で――「近代」とは、「ヨーロッパ」というある限定された地域で作り出された思想 ――と(ゴチックで)強調されていらっしゃいますね。
 さらに――現代は人がたった一つの思想に縛られる時代ではなく、多様な思想の中から、自分の思想を選び取る時代になるのかもしれない。僕はそれをニヒリズムではないと思う。選択、なのだ。(改行)これは、僕自身が思想一般を信じていないところからくる考え方なのかもしれない。――とも。
 この、思想一般を信じていない先生が、「近代とは思想だ」と述べていらっしゃるのは何たるアイロニーでしょうか。さらにこれは、第一章の近代について説明されているところの、ヘーゲルばりの読者泣かせの文章に、見事に帰結します。
 第一章の、立教大学経済学部の問題文出典の竹内 啓の文章に関し、先生は――「近代」というシステムについて、これほどシンプルかつ的確に説明した文章を、僕はほかに知らない。――と書かれています。しかしながら、この竹内の文章は、「近代というシステム云々」についての当否はともかく、「近代という時代」については残念ながら明確には説明していません。そこで、先生は次の三つの引用を並べることによって、竹内の例文に欠けていることを補説しようとされたのだと思われます。

引 用 図 書

近 代 の 説 明

『岩波 哲学・思想辞典』 ルネサンス(14〜16世紀)および宗教改革(1517年:ルター)以降という、西洋史の時代区分
今村仁司『近代の思想構造』 ルネサンス時代(15/16世紀)を助走期とし、近代の枠組み形成期(17/18世紀)、近代の確立期(19/20世紀)という段階説
池田清彦『科学はどこまでいくのか』 産業革命と市民革命以後の時代


しかし、これらの引用によって近代という時代を説明しようという先生の意趣は、いささか強引過ぎると思います。なぜなら、あの構造主義生物学の泰山北斗、池田清彦の冷徹無比の文章は、竹内 啓の文章のようには、近代というものをとらえていないことは明らかです。池田は、少なくとも引用された部分では、近代の思想面での評価はしていません。とくに言及されている産業革命は、一般的には思想史上のではなく、新しい生産技術の開発と潤沢な工業資源、資本や労働力によってイギリス社会を18世紀後半大きく変化させた、産業史上のできごととして扱われるのが普通です。いってみれば、「近代の果実」としての産業革命をもって近代の始まりと位置付けている、という点で岩波の辞典や今村説とは異質です。
 今村仁司の文を引用された後に、先生は――産業革命(イギリス)とフランス革命が起こった十八世紀を一応の区切りとしても――と書かれています。しかし一般的には、――西洋史では、ルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代、特に市民社会と資本主義を特徴とする時代をいう。(『大辞林』)――等と、『岩波 哲学・思想辞典』の説明と類似の定義がなされます。
 いずれにしても、「近代」はこれら辞典などに定義されているようには、つまり「特に市民社会と資本主義を特徴とする時代」などと一口にいえるほどに一意的であるとは思えません。いみじくも先生が「多様な思想」と書かれているように、十人十色の説明があるはずです。試みに、近代の始まりといわれてきましたキーパーソンを、煩をいとわず何人か枚挙してみましょう。

 デカルト(1596‐1650)は、近代哲学の父とよばれ、また近代科学のパラダイムを最初に確立した思想家でした。じつに「近代合理主義」は、自然的理性のキリスト教的理性からの自立としてあり、市民階級の発生や自然科学の発達などに依存し、これらをとおして次第にはぐくまれていったのです。

 ニュートン(1642‐1727)の手書き原稿の収集に努めました、あの経済学者ケインズは「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師であった」と述べています。魔術的世界観の科学による克服という考え方からすれば、ニュートンを「近代科学」の初めに設定することも可能です。

 ヘンリー・フィールディング(1707-1754)は、小説という文学ジャンルを発明しました。「近代英文学」は、彼に始まるといってよいでしょう。

 音楽に関してはどうでしょうか。「近代音楽」とは、一般にロマン派と現代音楽の中間の橋渡し的な時期をさすものとされています。しかし次のようにも考えられます。現代の楽器として欠かすことのできないピアノは、ベートーベン(1770‐1827)の時代にほぼ完成しました。この作曲家は、ピアノの発達とともに、自らその演奏技法を開発していったのです。さらにベートーベンは、アグレッシヴに自己の表現としての作曲に取り組んだことはあまねく知られるところです。ですから、この時代をもって「近代音楽」の始まり、と考えるのも理に適ったことであります。

 以上のように、今村説のような曖昧さのない、具体的な、哲学、物理学、文学、音楽等における近代の定義も、ある歴史上のできごとや人物に、何らかの意味付けをすればいくらでも可能です。ですから、一つの学説として「ある近代」を措定するためには、そのより所とする近代の契機を専一のものとして貫徹しなければ、結局論旨に破綻を招くことになってしまうでしょう。
 「近代的自我」というキーワードをもって口切りとしたこの本は、あくまでもこのキーワードで「近代」を押し通すべきだったと思います。池田清彦の政治技術説(?)のような異質のものを並列に取り上げてはいけなかったのではないでしょうか。このことによって「この本全体のバックボーンとしての近代」が、下手な骨接ぎ医が治療したように、骨折部がずれたまま癒合してしまったような気がします。

 

INDEX  NEXT

 

 

 

 

著作 アルキメデスの館